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「え、えっと、匠って名前の付け方が単純というか、安直というか。だからっ……」
「でも、ご自分が作家としてやっていくための名前ですよ? 安直につけたとは思えません」
「だけどっ」
「大事なペンネームですからね。先生にとって一番大切な人の名前に近づけたんでしょう。この名前に恥ずかしくないように頑張っていこう、そういう決意も感じます」
智里は恥ずかしさのあまり、行儀は悪いがソファの上に足を乗せ、身体を丸めた。
萩尾の言うように、匠がそういった思いを込めて「向坂智」という名前にしたのなら──。
その時、リビングのドアが開いた。
「あれ、智里? なんで丸まって……。萩尾さん……」
「うぇっ!? いえ、いえいえいえ! とんでもないっ! 僕は何もしてませんよ!」
匠の顔を見るなり萩尾がソファから立ちあがり、全身でNOというジェスチャーを始める。大柄な彼があたふたと両手両足をバタバタさせている様は、何とも言えず滑稽だ。丸まっていた智里も、思わず笑ってしまった。
「萩尾さん、面白いです」
「智里さん! 先生に説明してください!」
青ざめている萩尾が気の毒になり、智里はペンネームの由来を聞いていたと匠に説明する。
すると、匠は手を額に当て、ヨロヨロとソファに腰を下ろした。顔はそうでもないが、耳が赤く染まっている。どうやら、萩尾が言ったことは真実らしい。
「えっと……萩尾さんの考えで当たりみたいだね」
「言うな」
珍しく匠が照れるので、智里もまた恥ずかしさが込み上げてくる。しかし、込み上げるのはそれだけではない。
「なんか……ちょっと嬉しい、かも」
「……」
しばらくシーンと静まり返った後、もう耐えられないといったように萩尾が突然大声を出した。
「だーーっ! 僕はとっとと退散します! 先生、修正は後で確認させていただきますので! ではっ!」
バタバタバタと駆け足で萩尾は家から出て行ってしまう。気を遣わせてしまったと申し訳なく思うが、これはもうどうしようもない。
「匠、あの……萩尾さんには後で謝って……って! 匠っ」
「まさか萩尾さんに聞くとは思わなかった。そして、萩尾さんが気付いてるとも思わなかった」
すぐ側で匠の声が聞こえる。何故なら、智里は匠の腕の中にいるからだ。萩尾が出て行った後、すぐさま引き寄せられた。
智里は、両手で匠の手をそっと包み込む。
「私さ……匠と再会できて、本当によかった」
「智里?」
智里は匠を見上げ、微笑んだ。
「ペンネームにしてもらえるくらい、想ってもらえて嬉しい」
もし、過去の恋が順調であれば、智里は地元に戻ってくることはなかっただろうし、匠とはずっとただの幼馴染のままだった。匠の想いに気付くことは、一生なかったはずだ。そんなことにならなくて、本当によかった。
いつからなのだろう? 匠の中で智里がただの幼馴染でなくなったのは。
そんな智里の気持ちを見透かしたように、匠がポツリと呟く。
「ずっとだ。ずっと想っていた。智里が欲しかった。でも手を伸ばす勇気がなくて、何度も諦めようとした。自分が情けなくて、悔しくて、そんな気持ちを小説にぶつけて……それが運よく萩尾さんの目に留まって、本にしないかと言われたんだ」
「そうだったんだ……」
匠が智里と視線を合わせる。柔らかな視線、しかしその瞳には熱がこもっていた。
「それまでは適当なハンドルネームで書いてたけど、さすがに本になる時はちゃんとした名前をつけようと思ったんだ」
「……そっか」
「俺が向坂智だって智里が知った時、この名前の由来に、いつか気付いてほしいと思っていた」
「ごめんね、気付かなくて」
自分の鈍感さに少し腹が立った。匠はこれほどまで想ってくれているというのに。
智里がしゅんとしていると、匠が小さく笑う。
「でも、由来を知って、引かれるかもしれないとも思っていた。……重いだろう?」
智里は即座に首を横に振る。
重いなんて、とんでもないことだ。
「そんなことない」
「なら、よかったけど」
匠がそう言いながら、顔を近づけてきた。
瞳の熱は増すばかりで、その欲を孕んだ熱は、智里の身体をじわじわと火照らせていく。
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