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「そろそろ帰ろう」
「え、あ……うん」
「えー、まだ早いじゃん!」
唇を尖らせる凛香に構わず、匠は智里の顔を覗き込む。
智里は条件反射のようにコクコクと頷くと、匠はそのまま智里を連れ出した。
「た、匠っ」
「それじゃ、俺たちは帰ります。失礼します」
匠はその場にいる全員に向かって一礼すると、さっさと玄関に向かう。後ろから「智里ー、しっかりやるのよー!」だの「そっちにも遊びに行くわねー」だの「お兄ちゃーん、頑張ってー」という声が聞こえた。
母親二人はともかく、最後の凛香の言葉は明らかに違うだろうと、智里は心の中で密かにつっこみを入れる。匠は小さく舌打ちをしていた。
智里は匠の車に乗り込み、二人は匠の家へ向かう。早速今夜から同居開始だ。
「もっと……なんかいろいろあると思ってたのに、あっさりOKされちゃったね」
智里がそう言うと、匠が吐息をつきながら答えた。
「凛香がうちの両親に連絡入れた時から、もしかしたらって思ってたけどな。でもまぁ、結果的にそれがよかったのかもしれない。おじさんもおばさんもすんなり了承してくれてよかった」
「うちの両親が何か言うとしたら、匠の迷惑になるからってことだけで、匠がどうのってことは絶対ないよ?」
「アホか。嫁入り前の娘を男と同居させるんだぞ? 俺はいろいろ説明しなきゃと思っていた」
「よっ、嫁入り前って……」
「なんだよ。お前、結婚してんのか?」
「してないよっ! というか、してたら大問題でしょうがっ!」
「だな」
匠がクスクスと笑みを漏らす。
智里はプイと横を向きながらも、こんな言い合いをするのも久しぶりだと、つい懐かしくなる。
匠のこんな姿は、ごく限られた人間しか知らない。親しくしている友人でさえも、ここまでリラックスしている匠を見ることは滅多にないのではないだろうか。多くの時間をともにして、信頼関係を築いている萩尾でさえもどうだろう?
運転する匠の横顔を眺めながら、智里は物思いに耽る。
どうして疎遠になってしまったのだろうか。
上京してからも、しばらくはお互い連絡を取り合っていたように思う。大学生の頃は比較的頻繁だったのだが、今の会社に就職してからは一週間に数回、一度、二週間に一度、一ヶ月に一度……そんな風に少しずつ間隔があいていった。
それでもあえて連絡しようと思わなかったのは、美登里を通して匠の近況を知ることができていたからだ。美登里はことあるごとに連絡をしてきたし、その度に匠の話もしていた。それで、なんとなく連絡している気になっていたのだと思う。ただ、匠が作家デビューをしていたことだけは知らされなかった。美登里がそれを知らないはずはないのに。
「匠」
「なに?」
「向坂智で作家デビューしたこと、私に知らせないように頼んでた?」
「……」
それしかありえないのだ。
美登里は匠が作家として大成したことを知っていた。しかし、匠が口止めをしていた。だから、その件について美登里は智里に一切何も言わなかった。
「もしかして、向坂智だってこと、私に知られたくなかった?」
「……そういうわけじゃない」
匠が緩やかに車を停める。家に着いたのだ。
停めた車内で、匠はポツンと呟いた。
「俺だと知ったら、智里は絶対俺の本を買って読むだろ? 映像化されたら見るだろ? 俺が書いていることは知らないまま、気に入ってもらえたらいいと思っていた。……つまらないプライドみたいなもんだ」
「匠……」
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