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「あ、そうだ。自己紹介もまだでしたよね。僕は、萩尾清武といいます。出版社に勤めています」
「うわぁ! 本を作られているんですね。私は、咲坂智里です」
「咲坂さんは、元々こちらの方なんですか?」
「そうなんです。大学は東京だったので、卒業後は向こうで就職したんです」
そんな他愛のないことを話しながらしばらく歩いていくと、目の前に大きな家が見えてきた。その家の側には、なんと広々とした庭まである。青々とした芝生が敷き詰められており、智里は思わず立ち止まってその場所に見入ってしまった。
「すごい……」
「あぁ、あそこは動物たちが思う存分遊ぶ場所なんですよ」
「動物たち……?」
「こいつ、コハクも大好きですよ。犬たちは、あそこに行くと喜んで駆けまわっています」
「犬たち? え? 待って! 今、コハクって言いました?」
「はい。こいつの名前です。コハクを連れている時は裏口から入るので、こちらへどうぞ」
「え……」
萩尾はその大きな家の敷地に入っていく。
智里は混乱していた。まさかこのすごい家に住んでいるのが萩尾だということにもだが、何よりシェパードの名前に驚いていた。
コハク、コハクといえば……。
萩尾は裏口のドアを開け、中に入ってすぐにある洗面所から濡れタオルを持ってくる。
「コハク」
コハクはおとなしく萩尾に足を拭かれている。ちゃんとわかっているのだ。萩尾が足を拭き終わると、コハクは家の奥へ行ってしまった。
「どうぞあがってください。荷物はこちらに置いておきますね」
「すみません。……お邪魔します」
智里は靴を脱ぎ、家の中に入る。廊下を歩きながら、ついあちらこちらを見回してしまった。
ここは萩尾の実家だろうか。まさか彼の持ち家ではない、と思うが。
そんなことを考えているうちに、どうぞと萩尾に案内されたのはリビングだった。その広さに目を丸くする。
だだっ広い空間にソファとテーブル、テレビ、オープンラック、そして観葉植物が置かれていた。あまり物がないので、かなりスッキリとした印象だ。
「広いですね……」
「どうぞソファに座っててください。救急箱を持ってきますね」
「はい」
萩尾がその場所からいなくなり、智里は興奮冷めやらぬままソファに座ろうとした。その時、リビングの更に奥から何か白いものがすごいスピードで駆けてきて──
「きゃあっ!!」
こんなことがあるだろうか。一日のうちで二度も大型犬に突進されることなど。
一瞬見えた姿は、白かった。コハクではない。
ぶつかる、そう思った時だった。
「止まれ! リアン!」
萩尾の声ではない。別の誰かの声に、白い大型犬はピタリと止まった。智里にぶつかるスレスレの場所でだ。
犬は止まっても、ぶつかると思った智里はぶつかられていないにもかかわらず、すでにバランスを崩していた。このままだと床にひっくり返るだろう。一瞬の出来事なのに、頭では冷静にそう分析していた。目をぎゅっと瞑る。
だが、倒れなかった。何故なら、智里の身体は誰かに支えられていたからだ。
「え……?」
「……大丈夫か?」
先ほど犬を止めた時とは別人のような小さな声。
智里がゆっくりと目を開けると、そこには一人の男がいた。智里の様子を窺っているようだが、その表情は全くわからない。男の目は、鬱陶しいほど伸びた長い前髪に隠れていたからだ。
「あの……大丈夫です。すみません、ありがとうございます」
「いや……悪かった」
智里の無事を確認すると、男はすぐさま智里から離れる。すると、智里のすぐ側で止まったままだった白い大型犬が、智里にすり寄ってきた。
それに智里が笑うと、犬は嬉しそうに尻尾をパタパタと振る。そして今度は、男に向かって思い切りじゃれついた。
「うわっ! こら、リアン!」
「あぁ……うわ、あの……」
身長は高いが男は華奢な体型で、大型犬にじゃれられると今にも倒れてしまいそうだ。
智里がどうしようかとオロオロしていると、ふとした瞬間に男の前髪から双眸が垣間見えた。その瞳を見て、智里は驚きのあまり言葉を失う。
どうして彼がここにいるのかわからない。しかし、シェパードの名前がコハクであることといい、彼の瞳に残る昔の面影といい、間違いない。彼は──。
「匠、なの?」
幼稚園から高校まで、ずっと仲の良かった智里の幼馴染・黒須匠。
智里がその名を呼ぶと、彼は前髪を下ろしたまま智里をじっと見つめた。
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