初めての殺人

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初めての殺人

「海山警察の山城です」 「わたしは風戸です。ええと、遺体を動かす前に見てもらって、お聞きしたいことがありまして……みなさん大丈夫ですか?……」  海山警察の若い刑事、風戸は警官に付き添われて部屋に入ってきた藤堂由香里ほかの人々に言った。藤堂由香里はエレガントなデザインのミニのドレス。男性はタキシードだった。由香里は頷くだけでことばは発しなかった。ほかの人間も由香里に追随して頷いていた。  この屋敷は、海山警察署の管内だけで無く近郊に知らぬものがない、英国風の古い荘厳な屋敷をまねた造りの豪邸で、由香里の祖父に当たる人物が財をなしたとき、この場所に建てた別邸だった。藤堂の家ではこの屋敷を特別なパーティーを主催するときなどにだけ使っていた。今夜は数十人が屋敷一階のホールに集まり由香里の立ち上げた会社の創立を記念する催しが開かれていた。 「吉川恵利さんは『気分が優れない』という理由で2階奥のこの部屋に通されて休んでいた。しばらくして様子を見に来た由香里さんがドア越しに恵利さんに話しかけたが応答が無く、ドアを開けようとしたが中から鍵がかかっていた。そこで恵利さんの同伴者だった矢追健一さんとお友達の芦川豊さんに声を掛けてドアを押し破って中に入ると恵利さんの遺体があった……そういうことですね?」 「はい……」  藤堂由香里が小さく返事をした。その顔を見て風戸が話を続ける。 「遺体を動かす前に確認したいと思いまして。……遺体の右手の床を見てください」  吉川恵利の遺体はうつ伏せで、窓のある壁に平行に倒れ、両腕を軽く万歳をするような形にしていた。体の下には刃物で刺されたらしい腹部を中心に出血が広がっていたが、幸いと言うべきか顔は壁の方を向いていて表情は見て取れなかった。  部屋に連れてこられた藤堂由香里、矢追健一、芦川豊の3人は風戸が言ったとおりに遺体の右手の先の床を見た。 「Kという文字が書いてあるのを確認できると思います……ご自分の血で」風戸が3人に促した。 「ダイイングメッセージ……ですか」と矢追健一が呟くように言った。 「はい。そのように見えますね」風戸は腰に手を当てて、一歩後ろから言ったことばには『疑問』の調子が感じ取れた。 「違うんですの?若い刑事さん」  藤堂由香里が念を押すような少し高いイントネーションで言ってきたので風戸は少し目を見張った。藤堂由香里は風戸に『若い』と付けたが年齢は彼女も風戸と変わらないだろうと思われた。それでもあえて風戸を『若い刑事』と呼んだのは少々見下す雰囲気が感じられた。 「わたしも長いこと刑事をやっていますが被害者が自分の血でダイイングメッセージを書いたというのは聞いたことがありません。……まあ、絶対にあり得ないとは言いませんが」  被害者の足下の方に立っていた山城刑事がサラサラとそう言った。それは『これは犯人の偽装です』という僅かな呆れの意味が感じ取れた。 「ですが、その『K』という文字は重要ではございません?」藤堂由香里が山城刑事のことばに食い下がってそう言うと、矢追健一が、 「僕の……ケンイチの『K』なのかな……」と言った。 「なにか、心当たりが?」  風戸刑事が矢追健一に尋ねると彼は「あぁうぅ……」とことばを漏らして顔が青くなっていくのが見て取れた。だが、風戸はそれを打ち消した。 「ローマ字一文字だけでご自分のことだと考えるのは、ずいぶん感じやすいんですねえ。でも、思い過ごしでしょう」 「刑事さんは、これが恵利さんのダイイングメッセージだということを否定するんですのね?」  そう言って風戸の方へ向き直った藤堂由香里に正対するように向き直った風戸は、右手の人差し指を立てて見せた。 「ダイイングメッセージは被害者が死に瀕して今まさに息絶えるというときに死力を振り絞って書くものです。そして、字を書くなら当然、手元を見ながら書くはずです。……吉川恵利さんの遺体をよく見てください。……遺体の顔は左右どちらを向いていますか?左です……。薄れゆく意識の中で力を振り絞って床に『K』と記して、息絶える瞬間にわざわざ、文字を書いたのと反対の左に顔を向ける理由はありません。わたしは遺体を見てすぐこの疑問を感じて、先ほど吉川恵利さんをご存じのパーティー出席者に確かめました。吉川さんは、左利きだったそうです。……だとすれば、このダイイングメッセージはよけいにおかしいわけです。利き手ではない右の指で『K』と書いてさらに顔を反対側に向けているんですから……そう思うでしょう?藤堂由香里さん」  風戸が言い終わるか否かのうちに藤堂由香里が口を開いた。 「でも、見ればわかるけれど恵利さんは左腕に時計をしているわ。恵利さんのお友達が勘違いをしているのでは?」 「はい。恵利さんは元は左利きでしたが、小さいころ親御さんに右利きに修正するよう練習させられて多くのことを左右どちらでも出来たそうです」 「ほら、やっぱり右手で文字を書いてもおかしくないじゃないの」 「でも、字を書くのは必ず左だったそうです。矢追健一さんも、それはご存じなんじゃありませんか?」  風戸が急に話を向けたので矢追健一は一瞬ビクッとして、激しく頷きながら「あっ、ええ」とだけやっと口にした。 「恵利さんが右手でダイイングメッセージを書いたことを完全に否定することは出来ないと思いますけれど?」  藤堂由香里は、『この戦いは勝った』という余裕をことばに込めて言った。だが、風戸のことばからも余裕は消えなかった。 「……この事件は芝居がかっていますよねえ?イギリス風の大きな屋敷。そこで開かれているパーティーの最中に人が殺される。被害者のいた部屋には内側から鍵がかかっている。この二階の外開きの窓は僅かに開いていて、窓の下の地面にスニーカーの靴跡がいくつか残っていました……。窃盗目的の侵入者は吉川さんと鉢合わせしてしまい殺害して、何も取らずに逃走した?推理小説の世界です……。長々と話してすみません。実は簡単な答えがあるんです……」 「どんな答えですの?」  藤堂由香里は冷淡な口調に変わっていた。  風戸は吉川恵利の遺体の頭の側にかがみ込んだ。 「右手でダイイングメッセージ。そして……」風戸はそう言いながら遺体の左手をそっと持ち上げた。「左手の下にも……これ、手の中に軽く握るようにしていますが絹糸だと思います。それでピンっと来ました。犯人は吉川さんを殺害するとき返り血を恐れて絹糸を使った何かを上から着て犯行に及んだのではないか?ナイトガウンのような?……吉川さんは刺されたときに左手で相手の着ているものを掴みそして倒れた。……左手で握っている方が本物のダイイングメッセージでしょう」  風戸はしゃがみ込んで斜めに藤堂由香里の顔を見上げ、そして続けた。 「さっき言いましたが、この犯行は設定が芝居がかっています。イギリスの古い屋敷にはよく隠し扉があると聞いたことがあります。この屋敷にもそういう扉があるんじゃないかと思いました。この部屋も窓以外の所から出入りできるんじゃないかと。その場所に犯行に使われた証拠品が隠されているんじゃないか?」  風戸はそう言いながら立ち上がりクルリと背を向けて壁の大きな本棚に向け、歩み寄ると棚の隅に指を滑り込ませて何かを押した。すると、『カチリ』と音がした。 「よく出来てます。こんな大きな本棚が簡単にスッと開きますね」  本棚の扉の向こうは隣の部屋だった。部屋には警官が二人いた。風戸は警官に声を掛けた。 「ありましたか?」 「はい。これが」  警官は二つの透明な袋を示した。中にはそれぞれ、シルクのナイトガウンとナイフが入っていた。警官のそれを見て風戸はまたクルリと藤堂由香里の方へ向きかを変えて、 「藤堂由香里さん。あなたは恵利さんの飲み物にクスリを入れるなどの細工をしたのでしょう。気分が悪くなった恵利さんに優しいフリをして2階廊下の奥にある人目に付きにくい部屋を案内して中で休ませた。そのあとパーティー会場に戻ってから化粧を直すとか口実を設けてまた2階に上がり、恵利さんのいない手前の部屋に堂々と入ると即座に用意したガウンを着、凶器のナイフを持ってこの隠し扉を開けて恵利さんの部屋に現れ、何食わぬ顔で窓際に彼女を呼び寄せると有無を言わさず腹部にナイフを突き刺した。階下のホールで音楽が鳴り響き大勢が話す中では恵利さんが少々声を上げたくらいでは聞こえない。ですが盛大で本格的な舞踏会なのに、あなたのドレスは袖も短めのミニのドレスなのは不自然だ。素早く動けて上からガウンを着たときにすっぽりと覆うことが出来るようにと考えてのことでしょう?ただ、それだけ計算して用意したつもりでも心は焦っていた。恵利さんが死の間際に左手で証拠の絹糸を隠し持ったのは見逃してしまった!……詳しくお話を聞きたいので署まで同行願えますか?」そういうと一歩前へ詰め寄った。  藤堂由香里の顔は失望に青ざめていた。 「下のホールに残っている客の中を歩くのはお断りしたいんだけど?」 「殺人を後悔するより人目が気になりますか?」 *  藤堂由香里は素直に犯行を自供した。  動機は恋人だった矢追健一が自分を見限って吉川恵利と交際し始めたことだった。矢追は元々、吉川恵利の恋人だったが藤堂由香里に目を付けられ誘惑されて1度は藤堂由香里になびいてしまった。だがその後、矢追は吉川恵利を愛する心を捨てられず、また恵利の元へ帰って行ったのだった。生まれてこの方、全てに恵まれて挫折を味わったことのなかった藤堂由香里は、自分と結ばれれば地位も金も手に入り不満のないはずの矢追健一と彼に愛される吉川恵利に怨嗟の炎を燃やしていたのだった。 「あの日、恵利のダイイングメッセージのせいでホールの客達の前を警察に連れて行かれるのは矢追健一のはずだったのに……人をコロスの初めてだったの……少ししくじったわ」 「大概の犯人は初めてなんですよ。だからミスがあるんです。それを探すのが我々の仕事です」  風戸がそう言うと藤堂由香里は顔をしかめて目線をそらした。
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