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本と恋と、そして悪意と
静かな図書室には二人の男子生徒と、一人の女子生徒がそれぞれ思い思いの席で勉強したり本を読んでいた。僕は読んでいた本から視線を上げて、その様子を貸出カウンターの奥からぼんやりと眺めた。ふと、隣りからぺらりとページをめくる音がする。視線だけを動かして見ると、僕と同じ図書委員の湊さんが膝にハードカバーの本を乗せて読んでいた。長く癖の無い黒髪と、華奢な体躯とが合わさって、如何にも文学少女と言った風情だ。
しばし湊さんに見とれた後、視線を上げて窓の外を見た。じりじりと太陽によって灼かれるグラウンドではサッカー部が試合形式の練習をしていて、その周りを陸上部が延々と走っていた。
時折サッカー部、もしくは陸上部のコーチの怒号が轟いてくる。校舎のどこかではコーラス部が大会に向けて歌っていて、綺麗な歌声が僅かに聞こえ、それらが混ざり合って、アバンギャルドなBGMとなって図書室内に流れていた。
カウンターに頬杖を突きながら、「平和だなあ」なんてジジ臭い事を思っていると、不意に出入り口の扉が開いた。古い所為で建付けが悪く、キーッと不快な音が鳴る。
「やあやあ、可愛い後輩たちよ。サボってないかい?」
「サボるも何も、仕事が無いですよ。……それより、どうしたんです? 木南先輩。今日は僕達が当番ですよ。先輩は明日じゃ?」
驚くほど短いスカートに、大胆に胸のボタンを開けて制服を着崩した女子生徒が笑いながら近づいてきて、カウンターにもたれかかった。
木南先輩。三年の図書委員で、僕と湊さんの先輩だ。スクールカースト上位のみに許されたギャルのような見た目のくせに本を読むのだから世の中分からない。因みに、完全で完璧に僕の偏見である。
木南先輩は、校則違反だと言うのにがっつりと色素を抜いた、少し癖のあるショートカットの髪を指先で弄りながら口を開いた。
「ああ、分かってるよ。今日は野球部が休みだからね。本でも借りようかと思ってさ」
「マネージャーやってたんでしたっけ」
「そうそう」
木南先輩は図書委員と野球部のマネージャーを兼任していた。今年は受験もあるのにいつ勉強してるんだろう。そんな木南先輩は近くの本棚から適当に本を抜き取り、椅子を一脚持って来てカウンターの横に座って読み始めた。木南先輩、僕、湊さん、と並ぶ形だ。
僕も読書の続きに戻ろうかと暫く文字を追っていたが、しかしどうにも集中できなくて本を閉じて椅子の背もたれに倒れかかった。
すると、さっきまでずっと静かに読書していた湊さんが顔を上げて僕の方を向いてきた。
「……有川君どうしたんです? あまり集中できてないようですが」
「うん、まあね」
僕は読んでいた本を手に取った。表紙を見ながら言う。
「海外の小説は苦手なんだよ。この翻訳された文章独特の違和感と言うか、日本人との価値観の違いがどうも受け付けないんだよね」
木南先輩が顔を上げた。
「あーそれわかるかも。文章の所為でいまいち物語に入り込めないんだよねえ」
「そうですよね」
「まあ、翻訳者によるだろうけどさ」
僕と木南先輩が意気投合していると、横から湊さんが「そうですか?」と言った。
「わたしはあまりそんなことは感じたこと無いですね。唯一読みにくいと思ったのは夢野久作の『ドグラ・マグラ』くらいでしょうか。あのチャカポコチャカポコの所で断念しました」
木南先輩が言う。
「わかるーあたしもそこでばたんきゅーしたよ」
次は湊さんと木南先輩が意気投合し始めた。僕は微苦笑を浮かべながら言う。
「まあ、あれはねえ……でも、あれを乗り越えて読むと意外と面白いんだよ。ほとんど意味わからなかったけど」
「……それ本当に面白かったんですか?」
僕はふと、湊さんが膝に乗せている小説に目を止めた。
「湊さんは何読んでるの?」
「あ、これですか」
湊さんは表紙をこちらに向けてくる。知らない作者に見たことないタイトルだった。素直に「知らないなあ」と言った。
「そうですか……まあ、この人あまり有名じゃないですしね」
湊さんはそう言って表紙を優しくひと撫でした。尊いものでも見ているかのように優し気な瞳をしていた。
「わたしは好きなんですよ、この人。作品のほとんどは所謂青春モノなんですけど、文体は何処か淡々とした機械的な文章なんですね。でもそれが絶妙に物語とマッチしていて、グッと作品の中に引き込まれるんです。結末はちょっぴり悲しいんだけど、でも優しさも混ざっていて本を閉じた時に心地いい読後感に包まれる、それが本当に好きなんですよ。この本、昔お母さんが持っていたのを読んで気に入っていたんですが、知らない間にお母さんったら捨ててしまっていて……その上、既に絶版になっていてもう手に入らないんです。ずっと探していたんですがこの前この図書室で見つけたんですよ。嬉しくなって、今読み返しているんです。是非皆さんにも読んで欲しいですね、ただ、この本絶版だからか貸し出し禁止になってますけど」
楽しそうに語る彼女の横顔を眺めながら、僕は口を開く。
「結構饒舌なんだね、湊さんって」
「……っ!」
彼女の顔がみるみるうちに赤く染まっていった。恥ずかしそうに言う。
「そ、そんなに喋ってました……?」
「いや、そこまでではないけど、湊さんって大人しいイメージだったからさ」
「……恥ずかしいです」
木南先輩が「それってどんな話なの?」と聞いた。
「えーと。野球の話です。弱小野球部が甲子園を目指すって言う、王道のやつですね」
僕は口を開く。
「野球モノなら『バッテリー』とか有名だよね。あれは面白かったよ」
「そうですね。あれは傑作です」
ふと、木南先輩がにやにやとした顔で身を乗り出してきた。「そう言えばさあ」と切り出す。
「野球で思い出したけど、湊ちゃん、村上の奴に告白したんだってねえ」
「そ、それは……」
みるみるうちに湊さんの顔が赤く染まっていく。今日はよく赤面する湊さんだ。っていうか、告白したって? 湊さんが!?
僕は心にひびが入る音を確かに聴いた。
そんな僕の様子に気づく様子もなく、木南先輩が楽しそうに言う。
「やるねえ、湊ちゃん。見かけによらず結構大胆だね」
「……」
恥ずかしそうに俯く湊さん。湯気が上がりそうな程真っ赤になっている。
やっと我に返った僕は、先程からの疑問を口にした。
「その村上って人は誰です?」
「ん? 村上知らないの? この学校じゃ結構有名人だよ」
木南先輩は身体を引いて腕と足を組んだ。どこか誇らしげに言う。
「あれだよ。うちの野球部のエース。野球は巧いし、顏も爽やかで女子に結構人気なんだよ」
「へーそうなんですね」
僕では背伸びしたって勝てない相手の出現に、心の中で溜め息を吐く。……さよなら、僕の初恋。
木南先輩は、未だ赤くなっている湊さんに言う。
「返事はどうだったの? 村上の奴、教えてくれなかったんだよねえ」
そうだ、湊さんがフラれたのなら僕にだってまだチャンスは――え、ない?
僕達がそんなやり取りをして盛り上がっていると、僕に影が覆いかぶさった。視線を上げると眼鏡をかけた女子生徒がこちらを見下ろしていた。胸に本を抱えている。
「あの、貸出いいですか?」
「あ、ああ、はい。大丈夫です」
僕は本を受け取って、古いパソコンに繋がれているバーコードリーダーで本の裏についているバーコードを読み取った。処理を済ませた本を女子生徒に渡す。
「はい、どうぞ。返却期限は二週間です」
「……」
女子生徒は無言で本を受け取ると、図書室を出ていった。……心なしか、不機嫌そうだったなあ。もしかして僕達がうるさかったとか?
そんなやり取りが終わると、木南先輩がさっきの続きを言った。
「んで、返事は?」
返事の答えを急かす木南先輩に、僕は内心「この人、デリカシーないなあ。フラれていたらどうすんだろ」と思った。しかし、返事の答えが気になるのは僕も同じである。
湊さんは一瞬の躊躇の後、おずおずと口を開いた。
「……少し、時間をくれって言われました」
「かーっ! なんだアイツ! こんな健気な女の子が想いをぶつけたんだからイエスかノーで答えてやれよ! よし、今度会ったらぶっ飛ばしてやる!!」
「――っ! そんな、やめてください。暴力は駄目ですよ!」
拳を握りしめ、怒りを露わにする木南先輩に、慌てて湊さんが止めに入った。
「わたしもいきなりでしたし、村上先輩にも考える時間は必要ですよ」
「……まあ、湊ちゃんが言うなら」
そんなこんなしている内に、図書室を閉める時間が来た。気が付くと、あの眼鏡の女子生徒を除けて後二人はいた筈の男子生徒の姿は消えていた。
僕は立ち上がって窓の鍵を確認しようとした。すると、時計を見た木南先輩が目を見開いた。
「げっ! もうこんな時間か、今日はお母さんに早く帰ってくるように言われてるんだった」
「先輩、何か借りるって言ってませんでした?」
「……まあ、また今度でいいや。じゃあね、可愛い後輩たち。戸締りきちんとするんだよ」
「へーい」
じゃっと手を上げて去っていく木南先輩を見送って、僕は窓に鍵がかかっていることを確認し始める。湊さんも読んでいた本を椅子の上に置いて、僕の手伝いをし始めた。
戸締りが完璧なのを確認した後、僕は手に持った鍵で出入り口の扉を施錠しながら湊さんに言う。
「鍵は僕が返しておくから、先帰っていいよ」
「……そうですか? じゃあ、お言葉に甘えて」
踵を返し、下駄箱に向かって歩いて行く湊さんから視線を外し、僕は鍵を返すために職員室に向かった。
□□□□
次の日。
六時限目の終焉を知らせるチャイムが鳴り、先生が教室を出ていった。扉が閉まった後、クラスメイト達が歓喜の混ざった溜め息を吐いた。
僕は荷物を纏め、友達に「また明日」と挨拶を済ませる。
帰ってから何をしようか、とぼんやり考えていると、ふと扉の向こうから木南先輩が顔を覗かせていた。ちょいちょいと手招きされ、僕は従順な飼い犬のように彼女の方へ向かった。
「どうしたんです?」
「悪い。今日の図書委員の当番変わってくれない?」
木南先輩はそう言って、両手を合わせてウインクした。おお、可愛い。
しかし、僕には帰って堕落の時間を過ごすと言う使命があり、ホイホイと可愛さに釣られて図書委員の仕事を受けるわけにはいかなかった。
「嫌ですよ」
「頼むよー。友達にカラオケに誘われてさあ。有川、どうせ暇でしょ?」
「暇かと聞かれたら、まあ、暇ですけど……」
「やっぱり暇なんじゃん。今度ジュース奢るからさあ」
先輩がじりじりと詰め寄ってくる。僕は思わず後退った。
「……分かりました。分かりましたよ。ジュース二本で引き受けます」
「くっ。分かったよ。ジュース二本な」
辺りを見渡すと、生徒たちが何事かとこちらを遠巻きに見ていた。ただでさえその見た目で目立つ木南先輩が、地味な僕に絡んでいることが珍しいのだろう。……視線が痛い。おもに男子の。
木南先輩が「頼むよ」と言い残して踵を返した。踵を返す直前に投げキッスを残していった。
「……」
その瞬間に僕を取り巻く殺気が立ち込め始めたので、ボコられる前に足早に職員室にカギを取りに向かった。
□□□□
カギを開けて図書室の中に入ると、当たり前だが誰もいなかった。立ち並ぶ書架や自習スペースの机と椅子が所在なさげに埃をかぶっていた。
貸出カウンターまで行き、カバンを下ろして椅子に座る。昨日読んでいた本を取り出して、しおりを挟んでいるページを開いた。挫折しかけているが、途中で読むのをやめるのもモヤモヤするので頑張って最後まで読むことにしたのだ。グラウンドでは陸上部とサッカー部が準備をし始めていた。
しばらく文字を追っていたが、やっぱり集中することができず、僕は本から視線を上げた。すると、隣の椅子の上に一冊の本が置かれているのに気が付いた。昨日、湊さんが読んでいたやつだ。
僕はその本を取り上げた。普段おとなしい湊さんがあそこまで饒舌に面白いと言っていたので、気になったのだ。
僕は、そのやや古ぼけた表紙をめくる。
そして、目を見開いた。
『彼から手を引け』
まず初めに目に飛び込んできたのは、その文字だった。そしてその周りにはビッチだの、馬鹿だの、人を罵る悪意に満ちた言葉が所狭しと書き殴られていた。
どういうことだ?
僕はそのあまりの衝撃に、本を開いたまま固まった。
と、その時だった。
「悪い木南っ! 今日の当番――」
不意に出入り口の扉が勢いよく開かれ、一人の男子生徒が姿を現した。図書委員の先輩だ。
僕はその声で我に返り、思わず本をカウンターの下に隠した。男子生徒は僕の姿を認めると「あれ?」と言った。
「なんで有川がいんの? 木南は?」
「あ、ああ、僕、木南先輩に今日当番変わってくれって頼まれたんです」
男子生徒は「そうか」と呟いて続ける。
「俺、いきなり急用ができてさ、悪いけど今日の当番一人で頼める?」
「ああ、はい。大丈夫ですよ」
「サンキュー」
男子生徒はそう言い残し、慌てた様子で足早に去っていった。
僕は彼の足音が聞こえなくなったのを確認し、再びカウンターの下から本を取り出した。もう一度あのページを見る。
『彼から手を引け』
ほかのページも見てみるが、同じようなものだった。人を罵る汚い言葉が乱雑に書かれているだけだ。
誰がこんなことを? 昨日、湊さんがこの本を読んでいるときは、このようなことになっている様子はなかった。
と、僕がその本を凝視しながら考えていると、再び扉が開いて女子生徒が入ってくる。昨日もいたメガネをかけている人だ。僕は慌てて本をカバンの中に突っ込んだ。
「これ返したいんですけど」
「あ、ああ、はい」
僕は女子生徒から本を受け取った。この人、昨日借りていったよな。もう読んだのか。
沈黙していたパソコンを起動させ、受け取った本の返却処理を済ませる。既に女子生徒は部屋の隅にある書架の許まで行って、本を選んでいた。
僕はカウンターに頬杖を突きながら、視線だけで足元のカバンを見た。
これは、一体どう言う事だろうか。
□□□□
図書委員の仕事をやり遂げ、家に帰って来た。夕飯の支度をする母に「ただいま」と言って洗面所に向かった。手洗いうがいを済ませて、自室に引きこもる。カバンから例の本を取り出して、鞄をそこらに投げる。
「思わず持って帰ってきちゃったけど……」
僕はベッドに腰かけた。マットレスがお尻を優しく包み込む。
再び、本の表紙に手を掛け、恐る恐るそれをめくった。直後、目に飛び込んでくる悪意のこもった言葉たち。
湊さんが好きだと言っていた本。
この本を語る、湊さんの優しげな横顔。
誰が、書いたのだろう。
誰の悪意なのだろう。
僕は、ぼんやりと考えた。
図書室は原則、放課後にしか開けない。つまり、犯行は放課後、図書委員が図書室を開けてから閉めるまでの二時間の間だ。しかし、その二時間は湊さんがずっと本を持っていた。となると、一見犯行は不可能のように思える。だが、しかしこれは推理小説の密室とかではなく、いち学校の何でもない図書室で起きたことだ。鍵なんて、図書委員が閉めた後でも職員室に行って「忘れ物をしたのでカギを貸してください」とでも言えば誰でも貸してくれるだろう。つまり、犯行は誰にでも可能なのだ。
僕が思考をこねくり回していると、不意に母の声が聞こえてきた。
「ご飯できたよー!」
「すぐいくよ」
僕は起き上がり、本を机の上に置いた。
まあ、明日にでもカギを借りに来た生徒がいなかったか、先生に聞いてみるとするか。
□□□□
三時限目の数学の時間、僕はノートも取らずにぼんやりと窓の外を眺めていた。窓から見える街並みは、いつも通りそこにあって、鋭い太陽の光に照らされていた。トンビが一羽、空高くを円を描きながら滑っている。
僕は授業中も例の本について考えていた。考えるがしかし、『彼から手を引け』から続く言葉たちが、湊さんを傷つけるために書かれたものであるという事実を除いて、皆目見当もつかなかった。
この出来事を起こした人物を特定するには、情報が少なすぎるのだ。それに僕はただの平凡で、目立たない一介の高校生に過ぎない。ホームズではないのだ。
「有川、おい有川!」
「は、はいっ」
名前を呼ばれて我に返った僕は、思わず激しい音を立てながら立ち上がった。先生が顔をしかめながら言う。
「どうしたぼうっとして、そんなに俺の授業がつまらないのか」
「違います違います」
先生はため息をつきながら頭を横に振った。
「これ、解いてみろ」
黒板をチョークでコンコンと叩く。僕は頭を切り替え、目の前の問題に向き直った。
結局、授業を聞いていなかったせいで解くことが出来ず、クラスメイトの前で恥を掻いて席に戻った。暫くするとチャイムが鳴って、授業終わりの挨拶もそこそこに先生が教室を出て行った。昼休みである。クラスメイト達は各々弁当を広げたり、学食に向かったりしていた。僕は席を立って、人混みをかき分けながら職員室に向かった。
「失礼します」
僕は軽く頭を下げて、先生や生徒でごった返す職員室に入った。
この学校に司書はいない。国語の先生が司書の代わりに図書室の管理をしている。
「あの、東野先生」
「ん、ああ有川君、どうしたの?」
書類の整理をしていた東野先生がこちらを振り向いた。優しげな表情の女性教員だ。少々化粧は濃いが、それでも整った容姿をしていた。
僕は言う。
「あの、少し聞きたいことがあるんですが」
「なあに?」
「昨日、僕がカギを返しに来た後、誰かカギを取りに来ました? 例えば忘れ物をした、とかで」
東野先生が首を傾げ、不思議そうな表情をした。
「いや、だれも来なかったけど……どうしてそんなことを?」
「まあ、ちょっといろいろあって……」
僕は言い淀み、視線を彷徨わせた。ふと、キラリとした物を目が捉えた。それを見つめながら言葉の続きを言う。
「あれ、先生って結婚してましたっけ?」
東野先生の左手の薬指で、蛍光灯の光を反射させて鈍色に光る物があった。まだ新しいらしく、その表面はツルツルとしている。東野先生は「あら、気づいちゃった?」と嬉しそうに言って左手を持ち上げた。
「この前、ずっと付き合っていた人にやっとプロポーズされたのよ。まだ籍はいれてないけどね」
ずっと独身の所為で『残念美人』とまで言われていた東野先生は、嬉しそうな表情を浮かべながら指輪の表面を撫でた。よし、うまく話をずらせた。
僕は心の底から「おめでとうございます」と言って東野先生に頭を下げ、職員室を後にした。
教室に戻ると、クラスメイトの半分ほどが出払っていて、残りの半分は仲のいい人たちとグループを作って雑談をしながら昼食を食べていた。僕は自分の席に戻り、カバンから弁当と読みかけの小説を取り出して、いつものように弁当を食べる傍ら本を読み始める。しかし、目の前の物語に集中できず、僕の意識は例の本に向いていた。
……カギを取りに来た人はいない。ということは僕がカギを閉めてから次の日に再び僕がカギを開けるまで誰も図書室に入った人はいないということだ。まあ、先生が出払った深夜に忍び込んだという可能性もあるが、それを考え出したらいよいよ犯人を特定するのは難しくので、今回はカギを閉めて、次に開けるまで誰も入ることはなかったと考えることにする。
つまり、あの本に触ったのは湊さんと僕だけということになる。湊さんの前に触った人がいたとして、その人が書いたのならば湊さんが気が付かないことはないだろう。ほとんど全部のページに書かれているのだ。それも、読むのに障害となるほど隙間なく。
ここまでで、僕が得られた情報の中で犯行可能なのは誰だろうか。その人だから無理だと言う主観を完全に頭から覗き、できるだけ客観的に考えてみた。
まず、本をずっと持っていた湊さんに、最後に鍵を返した僕。この二人だけだろうか……あ、ああ、そうか、もう一人いるじゃないか、東野先生が。
僕は弁当を食べ終わり、弁当箱を風呂敷で包んで鞄の中に押し込んだ。机に頬杖をついて窓の外に視線を向ける。白い陽光に焦がされている平和な街並みを見るでもなく見ながら、深いため息を吐いた。
「この三人は無理があるよなあ」
勿論、天地神明に誓って僕はやっておらず、湊さんなんかは起こっていることを知らないとは言え、被害者だ。それに、東野先生は恋人にプロポーズされたばかりらしい。
「……余計分からなくなったなあ」
情報を集める程、犯人の正体から離れて言っている気がする。
僕はぼんやりと外を眺めた。……犯人までたどり着けるのだろうか、もし、辿りつけた時、どう言う結末を迎えるのだろうか?
□□□□
放課後、僕は図書室に向かっていた。現場を検証するためと言えばそれっぽいが、まあ本当を言えば暇だからである。
扉を開いて中に入ると、いつものように図書室内は閑古鳥が鳴いていた。隅の席で男子生徒が勉強しているくらいだ。
カウンターの奥では湊さんが今月のおすすめの本のコーナーに使うポップを作っていた。淡い色のマーカーで、画用紙に几帳面な達筆で紹介文を書いていた。
僕が近寄っていくと、湊さんは顔を上げた。
「あ、有川君」
「やあ」
僕は近くの椅子を持ってきて腰かけた。腰かけながら、湊さんの他に図書委員が一人いない事に気が付いた。この学校の図書委員は基本的に二人で仕事を行うのだ。……一人でも持て余すのに、二人もいらないとは常々思うが、まあ学校が決めたことなので文句は言うまい。
「今日は一人?」
「ええ、大森君は予備校があると言って帰りました」
大森は、僕や湊さんの一つ下、つまり一年生の後輩だ。度の強い眼鏡以外、これと言った特徴の無い男子生徒である。しいて言うなら勉強が出来そう、と言うくらいだろうか。その印象をより強めるように、一年のころから予備校に通っているらしい。仕事を放り出して無責任な、とも思ったが、しかしほとんどやることのない図書委員である。湊さんも彼に対して不快には思っていないらしいので、まあ良しとしよう。
ふと、僕は作りかけのポップを目にとめて言う。
「それ、今月は湊さんだったっけ」
「ええ、そうです。読んでほしい本がたくさんあって迷っちゃいますね」
「そうだね。……って、この作りかけのポップ達は?」
僕はカウンターの隅に置かれている何枚もの描きかけのポップを見つけてそう言った。湊さんはチラリとそれを見ると、「ああ」と言う。
「それは失敗したやつです」
「え、これ失敗なの? 別に誤字も脱字も見当たらないけど……」
「いえ、誤字脱字では無いです。ほら、少し文字が傾いちゃってるでしょ」
「ほんとうだ」
相変わらず几帳面だなあ、と僕は苦笑を浮かべた。
ふと、窓の外に視線を向ける。今日は野球部がグラウンドを使っていた。今は休憩中か、隅のベンチにみんな集まって、汗を拭いたり水分補給をしたりしていた。目を凝らすと、ジャージ姿の木南先輩もその中に混ざって、一人の野球部員の背中をバシバシと叩いてころころと笑っていた。
その様子を見ていると、湊さんも作業の手を止めて外を見た。そして、ぽつりとつぶやく。
「……彼が村上先輩です」
「へえ」
そう言えば、全校集会で見たことがあるような気もする。背が高く、爽やかなイケメンだった。その上、野球部のエースだというのだから、それはそれはモテるだろう。そういえば、湊さんは返事を返してもらったのだろうか。
「ねえ、返事はどうなったの?」
「……まだ返ってきてないです」
湊さんの見て呉れは地味と言えば地味だが、目鼻立ちは整っているし、男子に受けそうな華奢な体型だ。性格も良く、人当たりも良いので男子たちにそこそこに人気があるらしい。そんな彼女からの告白だったら、僕ならすぐにOKするのに。
「……」
「……」
気まずい空気が流れたので、僕は慌てて言った。
「あ、えっと、ポップ作るの手伝おうか?」
「あ、はい。お願いします」
僕はカバンから筆箱を取り出そうとして、しかしそれがないことに気が付いた。教室にでも忘れたのだろうか。
「あれ……ちょっとごめんね、筆箱忘れたみたい。取ってくるよ」
そう言って立ち上がり、図書室から出た。僕達二年生の教室は二階にあるので、階段の元まで向かう。放課後の校舎は、いくら部活に励む生徒がいるとは言えやっぱり閑散としていて新鮮だった。
階段を登り、自分の教室まで向かおうとすると、ふと廊下の隅に人影がぽつねんと立っているのが見えた。制服からして女子生徒らしい。僕の教室は彼女の近くなので自然と顔が見える位置まで近づくことになる。顔を見ると、図書室の常連である、あの眼鏡の女子生徒だった。女子生徒は近づいてきた僕に気づく様子もなく窓の外をじっと見つめていた。視線を追うと、そこでは休憩の時間が終わったらしい野球部がノック練習をしている、ベンチに一人残った木南先輩が団扇らしきもので自分を仰ぎながらぼんやりとしていた。
野球部の練習なんか見て何をしているのだろう? そう思いながらも、まあ特に気にすることなく僕は教室に入って放置されていた筆箱を救出した。
教室を出て、未だ野球部を見つめている女子生徒を尻目に、僕は図書室へと戻った。
図書室に戻り、扉を開ける。湊さんはポップを作る手を止めて窓の外を――野球部の練習風景を見ていた。見ていたが、しかし僕が帰って来たのを確認すると直ぐにポップ作りを再開し始めた。僕は湊さんの隣に少しだけ距離を空けて座って、彼女が書く予定らしい本のタワーから読んだことのあるものを選んで紹介文を書き始める。本の見所と、簡単なあらすじ、そしてどんな人におすすめなのかを限られたスペースに分かりやすく書くと言うのは中々に難しい作業だった。それでも二人で行うと、かなり短い時間で終えることが出来た。
「ありがとうございます。おかげで今日一日で終わりました」
湊さんが文房具を片付けながらそう言った。
「いや、困った時はお互いさまってね」
僕はそう言い、その直後に耳が熱くなり始めた。……今のセリフは少し気障過ぎたか?
僕が自分の言った台詞に潰されそうになっていることを気にする様子もなく、湊さんが思い出したかのように口を開いた。
「そう言えば、あの本を知りませんか?」
「ん? あの本?」
「はい。少し前にわたしが読んでいたやつです。わたしと有川君が図書委員で一緒になってる時の」
ヒヤリとした。あの本なら今は僕の家の机の上である。僕が持って帰っていることに気が付いて、カマをかけられているのかと一瞬思ったが、しかし湊さんは言葉通りに本の場所を聞いてきているらしい。気づかれないように小さく息を吐く。
「いや、知らないなあ。あの日以降見てないよ」
「……そうですか。困ったなあ、あの本を今月のおすすめに入れようと思ったんですが。それに貸し出し禁止ですし」
「ま、そのうち出てくるんじゃないかな?」
「そうだと良いんですけど」
と、僕達が言葉を交わしていると、隅の方に座っていた男子生徒が腰を上げた。眉間を揉み、ぐーっと身体を伸ばしている。どうやら勉強がひと段落したようだ。そのままノートや参考書を鞄の中に押し込めると、図書室を出ていった。
時計を見ると、まだここを閉めるには三十分ほど時間があった。ふむ、暇になった。
僕はともかく、時間までは図書室にいなければならない湊さんは、立ち上がって本棚まで歩いて行き、適当な本を抜き出してきて読み始めた。読書をして時間を潰す様だ。僕は帰ろうかと思ったが、しかし折角、想い人の湊さんと二人っきりの状況なので彼女と同じ様に本を読むことにした。鞄から読みかけの本を取り出してページをめくる。
ページをめくりながら、ふと、例の本の事を思い出した。
……どうして僕はこんなめんどくさい事をしているのだろう。探偵でもないのに、犯人を割り出そうとここ数日間はずっとあの本の事を考えている。自分で言うのもなんだが、僕は普段こういうキャラではない。どちらかと言うと面倒ごとはのらりくらりと躱す様な奴である。なのにどうしてだろうか。……今回の事件の被害者が、好きな人だからだろうか。湊さんの為に、悪意ある人間を割り出そうとしているのだろうか。それとも、自分では分からないが、心のどこかで何か引っかかるモノでもあるのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えている内に、図書室を閉める時間が来たようだ。湊さんが立ちあがり、読んでいた本を元の本棚へ戻して、戸締りを確認しはじめる。僕もそれを手伝うために、本を鞄に戻して腰を上げた。
戸締りを確認し終え、二人して図書室を出る。湊さんが鍵を閉めながら「お手伝いありがとうございます」と言った。
「では、わたしは鍵を返しに行くので、また」
「うん。またね」
図書室前で僕達は別れた。湊さんは職員室へ、僕は下駄箱へそれぞれ向かう。
廊下を歩きながら、オレンジ色の夕日の差し込む窓の外のグラウンドへ視線を向ける。そこではまだ野球部が練習をしていた。
……今回の事件の真相をもし解明できたとして、僕はそれからどうするのだろう。その先に待ち受けている事は、決して大団円ではないだろうと言うのは想像に難くない。今回の事の裏にどう言う真実が隠れていたとしても、それでもあの本に書かれていた文字は人間の悪意だった。
「はあ……」
思わず大きな溜め息が口から転がり出た。でも、だけど、何故だか今起こっていることを見て見ぬふりをすると言う選択肢は僕の中には無かった。
廊下には僕しかいない。ウレタン樹脂の廊下と、上靴のゴムとが擦れる音だけがあたりに鳴り響く。窓の外で、キンッとバットがボールを芯で捕らえる音が響いた。見ると、ボールが夕焼けの空を高く飛んでいる。木南先輩が立ちあがって、嬉しそうに手を叩いていた。
□□□□
家に帰って自室の机の上に放置していた本を手に取った。表紙をめくり、何度目か分からない『彼から手を引け』の文字を眺める。わざと筆跡を分からなくしているかのような乱雑な文字の表面を撫でた。僕は立ったまま本に向かいながら、今日一日集めた情報を頭の中から掘り起こしていった。
図書室は、僕が鍵を閉めてから次に開けるまで誰も入らなかったこと。少なくとも鍵を取りに来た人はいないと東野先生は言っていた。
その東野先生がプロポーズされたらしいこと。
湊さんが告白した村上と言う先輩と、木南先輩が仲がいいらしいこと。
図書室の常連である眼鏡をかけた女子生徒が野球部の練習風景を眺めていたこと。
……これくらいだろうか。うーん、わからん。
暫く机の前で腕を組んで考えていたが、しかしやっぱりと言うべきか全く真相が見えてくる気配が無かった。諦めて、ご飯まで本でも読んで時間を潰そうとベッドに向かった時、ふとポケットの中のスマホが鳴り始めた。取り出して液晶画面を見ると、木南先輩からの着信だった。何だろうと思いながら通話ボタンをタップする。
「もしもし」
『もしもし、あたし』
「珍しいっすね、先輩から電話してくるなんて」
『まあねー』
「どうしたんです?」
『あのさ、結構前に有川に貸した本あるじゃん? あれ返して欲しいなって思ってさ。読みたいって言う友達が居るんだよ』
そう言われ、はっと思い出す。そう言えば二週間くらい前に先輩から推理小説を借りたっけ。
机の横に置いてある本棚まで移動し、その背表紙をすばやく確認していく。すると直ぐに目的の本は見つかった。
「ありましたありました」
『そうか、もう読んだ?』
「はい、読んでますよ。すみません、すっかり忘れてて」
本当は半分ほどしか読んでいなかった。文体が僕に合わずに放置していたのだ。ていうか、なんで読んだなんて見栄を張ったんだろう……。徹夜が確定した瞬間だ。
『いいよ。あたしも忘れてたし、じゃあ明日、昼休みに持って来て』
「分かりました」
それじゃ、と通話を切ろうとする先輩を僕は慌てて止めた。折角だし聞きたいことを聞いておこうと思ったのだ。
『ん、なに?』
「いや、そのちょっと聞きたい事がありまして」
『いいよ』
「今日、図書室から野球部の練習を見たんですけど、先輩と村上って言う人、仲良さそうでしたよね。二人はどう言う関係なんですか?」
そう言ってから、かなり踏み込んだ質問だなと思った。しかし、口に出した言葉はもう吸い込むことは出来ない。
木南先輩は怪訝そうに少しの間を開けた後、それでも答えてくれた。
『どう言う関係って、別に野球部のエースとマネージャーっていうだけだけど。それがどうかした?』
「いえ、ちょっと距離が近いなーと思って」
『ああ、それよく友達から言われるよ。男子と距離が近いって。そんなに近いかな?』
「……どちらかと言えば近いと思いますけど」
昨日だって僕に投げキッスをよこしてきたし。
『それで?』
「いやまあ、二人は恋人か何かなのかなーって」
『違うよー』
即答だった。木南先輩は続ける。
『あたし他に好きな人いるしね』
「……先輩って、そう言うの隠さないんですね」
普通、好きな人がいるって言うことは聞かれない限り隠す気がするんだけど。少なくとも僕は湊さんが好きだという事は友達にも誰にも言っていない。
木南先輩が言う。
『なんで? 別に人を好きになるのって恥ずかしいことじゃないじゃん』
「う、まあそうですけど」
こういうことをすらりと言えるところがこの人の凄いとこだろう。そして、今の言葉で、今回の事件に彼女は関与していないんじゃないかと思った。少なくとも、犯人ではない気がする。本に悪意のある言葉を書き殴るなんてしないだろう。
僕がそんな風に思っていると、スマホの向こうで木南先輩は笑みを含ませた声を出した。
『なに、もしかして有川、あたしに気があるとか?』
うわあ。にやにやと意地の悪い笑みを浮かべている所が目に浮かぶ。
「違いますよ」
『いいって、照れるな照れるな。いやあ、モテる女は困っちゃうねえ!』
「だから違いますって」
はあ……どうしてこの人は折角上げた好感度を自ら下げるのだろう。
面倒くさくなった僕は「聞きたいことも聞けたので、切りますね」と言い残して電話を切った。それとほぼ同時、母の声が聞こえてきた。
「ご飯できたよ!」
僕は声を張り上げ、「今行く」と言った。言ってから、言葉とは裏腹に僕はベッドに腰かけた。
正直なところ、今回の事件の犯人は何となく木南先輩ではないかと思っていた。しかし、今の電話でその可能性がかなり小さいのではないかと思い始めていた。……となると、一体誰がやったのだろう。
僕はベッドに腰かけたまま、しばらく虚空を見つめながら考えた。考え、考え、いっそシナプスが燃え尽きるのではないかと思う程、頭を、思考をぐちゃぐちゃと掻きまわした。そして、ある一つの可能性に行きついた。
顏から血の気が引いて行くのが分かる。口の中が渇き、呼吸すらうまくできない。
もしかして、そんな。
これは憶測だ。憶測で、そして証拠なんて一つもない。でも、それでも僕の中では犯人はあの人ではないかと確信に近い所まで来ていた。
僕には、この悪意の持ち主の正体が分かってしまった。
その後、待ちくたびれた母が呼びに来るまで、僕はベッドに腰かけたままぼんやりとしていた。
□□□□
次の日の昼休み、僕は三年生の教室のある校舎の三階の廊下を歩いていた。片手には昨日木南先輩に返せと言われていた推理小説をぶら下げている。
「くそっ……自分で昼休みを指定したくせに」
本を返そうと木南先輩の教室に向かったが、いなかったのだ。全く勝手な人である。彼女のクラスメイトの先輩に本を渡して返してもらおうとも思ったが、もともと人見知り気味の僕には知らない先輩に声を掛けると言う行為のハードルが高かった。仕方なく、見つけたら返そうと思い、自分の教室に向かっていた。
階段を降り、自分の教室の方向へ歩き出そうとした時だった。ふと、一階と二階をつなぐ踊り場に視線が向いた。
「あ」
見覚えのある二人が見えた。一つは一階へ降りようとしている湊さんの背中であり、もう一つは逆に上がってきている村上先輩の顔だった。湊さんは片手に財布を持っているので食堂か購買に向かっている途中だろう。村上先輩は様々な種類のパンと牛乳を両手に抱えていた。
僕は思わず一歩後ずさり、影から二人の様子を窺った。
お互いがお互いに気づいたのはほぼ同時だったようだ。二人が歩みを止め、見つめあう。しかし、それも束の間、再び同時に視線を外して、それぞれ階段の端によってすれ違った。湊さんは表情が分からない程顔を下げ、村上先輩は申し訳なさそうな表情で僕の隣を過ぎていった。
僕は見てはいけないものを見た気がして、逃げるように教室へと急いだ。
教室に戻り、弁当を広げて急いでそれをかきこみ、時計を見てまだ時間に余裕があることを確認すると、再び教室を出る。
今日はあの本を持って来ている。僕は、放課後に決着をつけるつもりでいた。
□□□□
いつもより体感時間の長い授業も終わり、放課後になった。荷物を纏めて、重い腰を上げる。
教室を出て、図書室に真っすぐに向かった。今日の貸し出し当番は僕と、もう一人は三年の男子の先輩である。その先輩には、今日は僕一人で仕事をすると既に伝えている。訝しげにしていたが、しかし本来するべき仕事を休めると言うので、その先輩は二つ返事でOKしてくれた。
階段を降り、図書室のある方向に向かって行く。放課後特有の明るい雰囲気の生徒たちとすれ違うが、しかし僕の気持ちには曇天が覆いかぶさっていた。
図書室に着き、カギが開いていることを確認して扉を開いた。中には一人が窓際に立って外を見ているだけで、他に人はいなかった。僕は急いで中に入り、後ろ手に扉の鍵を閉める。それとほぼ同時、窓際の人影がこちらを向いた。僕はゆっくりとその人影に近づいて行く。近づくが、しかしそれなりに距離を開けて立ち止まった。
僕は口を開く。
「……ごめんね。いきなり呼び出して」
「いえ、別に今日は予定無いですし、大丈夫ですよ。それより、どうしたんですか? 大切な話があるって」
人影――否、湊さんはそう言った。窓から差し込む太陽光の所為で、彼女の表情ははっきりとは見えない。今日はグラウンドを使う部活動が無いのか、無人だった。
僕は一度、ごくりとつばを飲み込み、肩に掛けていた鞄の中からあの本を取り出した。それを胸くらいの高さに持ち上げ、湊さんにも見えるようにする。
「話って言うのは、この本の事なんだけど」
僕が本を見せたと同時、湊さんが息を呑む気配があった。しかし、彼女は直ぐに優し気な微笑みに戻った。
「あ、その本見つかったんですね。どこにあったんですか?」
僕は、そう言う湊さんの言葉を無視する。
「……話の前に、前置きをさせてほしい」
「前置き?」
「うん」
僕は一度強く目を閉じ、深呼吸をして再び目を開けた。
「僕が今から言う事は僕の妄想であって、妄言だ。証拠なんて一つも無い。でも、それでも君を傷付けることになる」
「なにを、言っているんです?」
僕は本の表紙を開く。そこに書かれている『彼から手を引け』から続く汚い文字たち、それをゆっくりと湊さんの方に向けた。
湊さんはそれを見て、ぼやけている表情を歪めた。
「なんですか、それ。誰がそんなことを……」
しらばっくれる湊さんをもう一度無視して、僕は口を開いた。
「僕はこれを見つけた時、真っ先に湊さんあてに書かれたものだと思った。君が野球部の村上って言う先輩に告白したことを聞いた後だったし、それにこの本のことを君は好きだと言っていたからね。でも、それは違ったんだ。……これは、この言葉を書いたのは湊さん、君だよね?」
僕がそう言うと、湊さんは一瞬怯んだ様子を見せたが、しかしすぐに優し気な笑みのまま首を傾げた。
「すみません。何を言っているんでしょうか? わたしは今、初めてその文字を見ましたし、それにもしわたしがやったとして動機が無いですよね? 村上さんに告白したわたしにあてたのなら何とか説明はつきますけど、でもわたしがそんなことをする理由は無いです」
「君は、村上先輩に告白して、そして返事を先延ばしにされている。さぞかしもどかしい気分だと思うよ。そんな中、いつかは知らないけど野球部のマネージャーである木南先輩が村上先輩と仲良くしている所を見た。それも、恋人かと見間違うほど距離が近く戯れている二人を」
湊さんは自らの後ろにある窓枠に身体を預け、両手の指先をお腹の辺りで組んだ。その様子は、彼女が本来持っている華奢で退廃的な雰囲気と合わさって、壊れてしまいそうに見えた。このまま額縁に閉じ込めて飾ってしまいたいほど絵になっている。
彼女は口を開く。
「つまり有川君は、わたしが木南先輩に嫉妬して、もしかしたら村上さんを取られるかもと思い、やったと考えてるんですね? まあ、それなら真実はどうであれ一応の理由付けにはなってますね。女の嫉妬は怖いですから。特に痴情の縺れともなれば」
彼女はじっと僕を見据えながら、それでもやっぱり笑みは崩さずに続ける。
「それで、もし今有川君が言ったことが正しいとして、いつその本に悪口を書いたんですか? 有川君も知っての通り、この学校の図書室は放課後にしか開かないんですよ? あの日、わたしと有川君が当番だった日以降、わたしはその本に触れていないです。次の日の当番である木南先輩が開けるまで、ずっとその本はここにあったはずです」
「うん。僕もそこが分からなくて、わざわざ東野先生の所まで行って僕が鍵を返した後、鍵を取りに来た人はいないかって聞いたんだ。ここで誰かが鍵を取りに来ていたら単純な話だったんだけど、でも鍵を取りに来た人はいなかった。戸締りも完璧だったし、正真正銘この本は次の日に僕が鍵を開けるまでこの図書室にあったと思うよ」
ふと、今まで笑みを崩さなかった湊さんが不思議そうな顔をした。
「……えっと、あの日の翌日の当番は木南先輩ともう一人、三年の先輩だったのでは?」
「いや、あの日は二人共用が出来たらしくて、僕に当番が押し付けられたんだよ。それで、僕がこの本を見つけたんだ。本当は木南先輩が見つけるはずのこの言葉を、僕が見つけてしまったんだよ」
「そう、ですか」
僕はずっと突っ立っているのも辛くなってきたので、近くの机に腰かけた。マナーは悪いが、しかし今の状況できちんと椅子に落ち着く気にはなれなかった。
「話を戻すけど、この本のこの言葉がいつ書かれたかについて僕は悩みに悩んだんだ。それで、一つの可能性に行きついた」
「……」
不意に図書室内が薄暗くなった。どうやら雲が太陽を遮っているらしい。照明を点けていないせいで、いっそ不気味なほどの暗闇が僕と湊さんを包み込む。しかし、直ぐに雲は流れ、再び図書室内は明るくなった。
「この言葉はさ、初めから書かれていたんだよ」
「……初めから?」
「うん。あの日、僕達三人が集まっている時には既に書かれていたんだ。それなら鍵を閉めた後にわざわざ図書室に入らなくても説明が付く」
「でも、あの時は書かれていなかった。有川君たちもいたでしょう?」
「うん。いたよ。でもさ、僕も木南先輩もあの日、その本の中を見ていない」
「っ!」
湊さんが目を見開く。僅かに顔を下げ、しかし力強く言う。
「確かに、あの日はわたし以外その本には触っていません。でも、もし今有川君が言ったことが本当だとして、わざわざ本に書く意味がないじゃ無いですか。不満があるのなら直接言えばいいし、それに狙った人がその本を開くとは思えない。実際、その本を手に取ったのは木南先輩じゃなくて有川君じゃないですか」
「君の言っていることは正しいよ。でもさ、君が直接木南先輩にそう言う事を言えるとは、思えない。言っちゃ悪いけど、君はそこまで強かな人間じゃないと思うんだよ。でも、気持ちは伝えたい。村上先輩を取られないように、木南先輩に伝えたいと思った君は、気持ちをこの本に書くことにした。この本に書けば、まさか君が犯人だとは誰も思わないからね」
「犯人は分からないかもですが、それと同時にその言葉が誰に宛てたものかも分からないじゃ無いですか」
「いや、誰に宛てたものかは分かるよ。少なくとも、君に宛てたものではないことはね。この本の中に書かれている言葉の一つに『ビッチ』って言う言葉がある。でも、君はどう見ても『ビッチ』って言う見た目じゃないし、それに木南先輩はあんな見た目だ。君と木南先輩が並んでいたとして、『ビッチ』なのはどちらかと聞かれたら十中八九、木南先輩の事だと答えるよ」
「でも……」
湊さんは自分を落ち着かせるように一度大きく呼吸して、言う。
「でも、木南先輩が手に取って、中を確認するとは思えないです」
「君はあの日、この本を椅子の上に放置して図書室を出た。その時は何とも思わなかったけど、でもよく考えたら少しだけ不自然なんだ。……君はとても几帳面な性格だ。読んだ本は必ず元の本棚に戻すし、少し文字が傾いたって言う理由で何枚もポップを作り直していた。なのにあの日、君は本を椅子の上に放置したんだ。それは何故か? 椅子の上なら当番の人の目に絶対に入るからだ。これで木南先輩が本を手に取るって言うのはクリアできる」
「……じゃあ、中を確認するって言うのはどうするんです? 椅子の上に本があって、それが邪魔で手に取ったとして、その人が中を確認するとは限らないじゃ無いですか」
これは論理的ではなく、どちらかと言うと感情論だけど……大丈夫。それも崩せる。
「あの日、君はこの本について饒舌に語った。本当に面白いんだってことをいつもの君からは想像がつかない程饒舌に語ったんだ。あれを聞かされて、興味を持たない本好きはいないよ。現に僕も君の話を聞いていたからこそ、この本を開いたんだから」
「……」
それから僕達は暫く無言で見つめ合った。湊さんは初めて見る鋭い目をしていた。いつもの優しげな瞳とは違って、野生動物のような冷ややかな視線だった。僕は背中に嫌な汗を掻いた。早くこの空間から逃げ出したかった。口の中の水分がなくなり、呼吸すら意識しないと出来ない程、張り詰めた緊張感に犯されていた。
つまり今回の事件を簡単に説明すると、あらかじめ本に木南先輩へ向けた言葉を書いておき、それを僕たちがいるこの図書室で何食わぬ顔をして読む。そして折を見てこの本を褒めちぎり、木南先輩へ興味を持たせておく。そのあと本を貸出カウンターの椅子の上に放置すれば、明日当番であったはずの木南先輩がその本を開いて『彼から手を引け』の言葉を見る。その言葉が自分へ宛てられたものだと木南先輩が気づかなくて、そのまま湊さん宛てに書かれたものだと認識しても、「村上にはこんな危ないファンがいるんだ。ちょっと距離を取ろう」となってくれさえすればいいわけだ。というよりも湊さんはそっちを狙っただろう。まあ、彼女の誤算は当日木南先輩が当番を僕に押し付けたというところだが。
「それで」
いきなり、湊さんは静寂を破った。僕はビクッと身体を揺らしたが、何事も無いように彼女を見る。
「どうしたの?」
「それで、わたしをどうするんです? その本の事を木南先輩か、もしくは先生にでもばらしてこの学校から追い払うんですか?」
「……」
湊さんは、挑戦的な目をしていた。笑みさえ浮かべている。
僕は小さくゆっくりと首を横に振った。
「いや、誰にも言わないよ」
「それはどうして?」
「最初にも言ったけど、今僕が言ったことは全て憶測なんだよ。それがもし真実だとしても、僕の妄想妄言だって事は変わらない。それに、君がやったなんて言う物的証拠は何もないからね」
僕は手に持った本に視線を落とす。
「この言葉たちだって、乱雑に書き殴られている所為で筆跡で誰かを判定することは出来ないだろうし。だから、僕と君が誰にも言わない限り、今回の事は初めから起こらなかったことに出来る。幸いにも木南先輩にはバレてないしね」
「恩を売るつもり?」
「違う、違うよ」
湊さんが僕を見つめ、ふっと視線を外す。
「そう」
「うん。僕の話は終わりだよ。どうするかは君次第だ」
窓の外を見ると、空は徐々に夕焼け色に染まりつつあった。そろそろ鍵を返しに来ない生徒を心配して東野先生が図書室にやって来るだろう。
湊さんは無言で踵を返した。ゆっくりとした余裕のある歩みで図書室の出入り口まで向かって行く。扉を開け、一度僕の方を振り返った。そして扉を閉めようとする湊さん。
これで、これでいいんだ。……でも。
「待って!」
僕は無意識にそう言っていた。湊さんは動きを止め、訝し気にこちらを振り返る。
「まだ何かあるの?」
「……うん。最後に一つだけ言いたい事があるんだ」
この機会を逃すと、もう二度と湊さんと僕は言葉を交わすことは無いと思った。だから、せめて最後に僕は僕の想いをぶちまけることにした。
「僕は……僕は、君の事が好きだった。一年のころ、同じ図書委員になった時からずっとと君を想ってきたんだ。今回だって、君のことが好きだったから犯人を捜そうと思った。それがこんなことになってしまったけど……」
それ以上、言葉は見つからなかった。
湊さんは僕がもう喋らないことを確認すると、微笑んだ。それはいつもの優しくはかなげな微笑みだった。
「失望しました?」
僕は何も答えない。いや、何も答えられなかった。彼女は続ける。
「あと、有川君の話には一つだけ間違いがありますよ」
「え」
「わたし、フラれたんです」
「フラれたって、村上先輩に?」
湊さんはこくんと頷いた。
「返事を待ってくれって言われたなんて嘘。本当は告白したその日にフラれました。俺、木南のことが好きだって言われたんです」
湊さんはそう言って、扉を閉めた。足音が遠退いて行く。
僕は机から降りると、今度はちゃんと椅子を引き出してそこへ腰かけた。まるで粘度の高い液体の中にいるみたいに、ドッと疲れと無気力感が押し寄せてきた。
これでよかったのだろうか。
そう何度も自分に問いかけてみるが、しかし答えなんて分かるはずもなかった。
暫くそうしてぼんやりと椅子に座っていたが、やるべきことを思い出して立ちあがった。鞄を肩に掛けなおし、壁に掛かっている鍵を手に取って、片手にはあの本を持ったまま図書室を出る。職員室に行って鍵を返し、そのまま下駄箱に向かった。上靴からスニーカーに履き替えて校舎の裏手に回る。
校舎の裏には雑多なものが詰め込まれた物置と、焼却炉がぽつんと夕闇の中に紛れるように置かれている。僕は焼却炉の許まで真っすぐ向かうと、その中に本を投げ込んだ。見つからないように周りの灰をかき集めて埋める。
これで、湊さんがやったことは僕と彼女が黙っている限り、誰かにバレることはない。
僕は、踵を返した。
□□□□
学校を出て、家に向かう道をトボトボと歩いて行く。
暫くすると、コンビニが見えてきた。学校が近いこともあって、生徒たちが放課後によくたむろしている場所だ。その前を通り過ぎようとした時、不意に名前を呼ばれた。
「おーい有川―!」
声のする方を見ると、そこには木南先輩が一人、こちらに向かって手を振っていた。もう片方の手にはコンビニの袋を下げている。
木南先輩は僕の許に小走りでやって来ると、「今帰り?」と聞いてきた。
「ええ」
「ん? どうした浮かない顔して。失恋でもしたか?」
「失恋ですか。……まあ、そうなのかもしれないですね。恋は叶わなくなりましたから……」
僕がそう言うと、木南先輩はコンビニ袋の中に手を突っ込んで、ガサガサと何かを取り出した。ペットボトルのコーラ二本だった。
そう言えば、そんな約束してたっけ。
「ほれ、元気出せって。またすぐにいい人見つかるからさ。高校生は失恋してなんぼだろ」
「なんすかそれ」
僕は言いながら、木南先輩からコーラを受け取った。キャップを外して口に含む。パチパチと弾ける炭酸が心地いい。
木南先輩は僕の首に腕を回すと、グッと身体を引き寄せた。女子特有の甘ったるい良い匂いが鼻腔をくすぐる。
「へこむな少年よ。何ならあたしのこと好きになってもいいぞ」
「……いや、僕はもっと清楚な人が好みなので」
「ひどっ!」
僕達は互いに見つめ合い、そしてどちらからともなくケタケタと笑い出した。
夕日が、僕達を照らして地面に長い影を作っている。遠くの空で、カラスの鳴き声が響いて辺りに乱反射していた。
僕は笑いながら言った。
「先輩のお陰で元気出てきました」
「だろ?」
「あ、そういえば」
僕はカバンから本を取り出して先輩に渡した。借りていた推理小説だ。
「なんで昼休みいなかったんですか」
「悪い、忘れてた」
「……はあ」
僕達は住宅街を抜け、大きな川の流れる河川敷に出た。河川敷の上に作られている橋を渡りながらなんとなく視線を降ろすと、社会人と思しき人たちが野球をしていた。そしてそれを眺める一人の女の子がいた。目を凝らすと、よく図書室を利用しているあの眼鏡をかけた女子生徒だった。
木南先輩が僕の視線を追って、彼女を見つけると、「あ」と声を出した。僕は「知っているんですか?」と聞く。
「まあな、あの子野球が好きらしくてよくうちの野球部の練習も見ているよ。この前なんて試合も見に来てたな」
「へえ、熱心ですね」
「だな」
僕達は歩いて行く。太陽の茜色も徐々に濃くなっていて、東の空では夜が覗いていた。もう少し経てば完全に夜の世界へと移り、眼下で野球を楽しんでいる人たちも引き上げていくだろう。
不意に、木南先輩が声を出した。
「おっ」
その瞬間、辺りに響き渡る金属音。歓声が起こり、眼鏡の女子生徒が手を叩く。木南先輩も身体を乗り出して「ナイスヒットッ!」と叫んだ。
僕は空を見上げる。打ち上げられたボールがどこまでも、どこまでも高く飛んでいた。
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