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ホワイトアウト
雑草が枯れ、地肌が現れた茶色い畦道は湿り、そして凍っている。小さな水溜まりを履き潰したスニーカーで踏みつける度、ぱりぱりと小気味いい音が微かに鳴っては風に乗って何処かへと消えていく。辺り一面に広がる田んぼは今は沈黙を守り、民家は真冬の澄んだ空気の中に沈んで、遠くの連なった歪な山々は粉糖のかかった洋菓子の様だ。
不意に頬に針で刺されたかのような冷たさを感じた。しかしそれは次の瞬間には掻き消えている。
空を見上げる。
雪が、降っていた。
「寒いね」
脚を止め、空を仰ぎ見る僕にそう声を掛けてきたのは隣のハルだ。彼女は分厚いコートにフワフワのマフラーで完全防寒を決めており、とても寒そうには見えなかった。そんな彼女とは対照的に寒さ対策と言えば学ランのポケットの中の懐炉くらいの僕は、白い息を吐きだしながら頷いて見せた。
「寒いね」
僕達は再び歩き出した。背の低い彼女の小さな歩幅に僕が合わせて歩く。ずっとそうしてきたからかさほど苦ではない。ちらりと隣に視線を向けると、ハルの真っすぐな黒髪がマフラーに巻き込まれてふっくらとしていた。彼女の長いまつ毛の上に雪の結晶が溶けずに乗っている。
僕は口を開いた。
「明日だね」
「うん」
「びっくりしたよ。いきなり転校するなんて聞いたときはさ。東京だっけ」
春は僕の方を一瞬だけ一瞥するとこくんと頷いた。
「うん。東京」
「……いいな。羨ましいよ。こんなド田舎から出ていけるなんて」
「アキも来たらいいよ。まだ進路希望出してないんでしょ? 東京の、どこか適当な大学を受験したらいい」
僕はそれを聞いて力なく笑った。喉に冷たく乾いた空気が流れ込む。
「僕は家を継がなきゃ。それに勉強は苦手だからどこを受けたって駄目だよ」
先日、親に進学したいと告げた時の事を思い出す。勉強して、一度駄目だったら諦めるから。それに受かっても学費はバイトとかでどうにかするし。そう懇願する僕に向かって父はゆっくりとしかし力強く首を横に振った。母はそんな僕の事を申し訳なさそうに見ていた。でも、何もしてはくれなかった。僕の歩む道は固められていた。
ハルは僅かに眉を落とし、そっかと呟いた。
「仕方ない、よね」
「うん」
いつもは会話の途切れない道なのに、今日だけはお互い沈黙がちだった。でも、それでもそれは気まずいものではない。僕たちはずっと一緒だった。いつからだろう。思い出そうとしても、最古の記憶では既に隣にハルはいた。
畦道を抜け、廃れた住宅街に出る。相変わらず空気は冷たく乾いていて、雪が暴れながら落ちている。僕達以外、その中には誰も居ない。黙って歩いていると、本当にこの世界には僕達だけなんじゃないかと錯覚してしまう。壊れていく世界。そこに降る雪。それが世界を退廃的に魅せていて、美しく、そして寂しかった。二人だけの人類。崩れ行く文明。落ち続ける白い結晶。ここからは何処にも行けなくて、ゆっくりと静かに終焉と隣のハルだけを見つめて生きていく。そんな妄想をして、それも悪くはないなと思った。
もう少し進めば、道は二股に分かれてそこで僕達はさよならをする。気が付けば、どちらからともなく歩くスピードは落ちていた。
ずっとこの道が続けばいいのに。
ずっとこの時間が停滞すればいいのに。
そう思った。
月並みだけれど、そう思った。
住宅街の隙間を寒風が笛音のように轟きながら吹き抜けていく。枯れることを知らない雑草がしなやかに揺れ、落ち葉が舞い上がり、僕とハルを包み込む。
いつものようにどうでもいいことを話そうと何度も口を開くけれど、しかし言葉は白い呼気に変わるばかりで音として形成されようとはしなかった。
靴が地面を踏みつける音だけを響かせながら僕らはしばらく歩いていたが、不意にハルがその静寂を破った。
「わたし、わたしね」
僕は横目でハルの横顔を窺った。彼女は前を向いている。前だけを向いている。
「もしかしたらさ、アキのことが好きなのかもしれない。初めに気づいたのはいつだったかな……多分中学に上がったくらいだったと思うの。でも、それが本当に恋としての好きなのかわからなかった。恋だと確信するには、わたしたちは一緒にいすぎたんだよ。友達としての好き。男女じゃなく、人としての好き。もしかしたら愛着なのかもしれない。そう思ったらさ、どんどん確信が持てなくなっていっちゃった」
目の前に別れ道が迫っている。左の道が僕。右の道がハル。そこで僕たちはいつも手を振り、また明日ねと背を向ける。
だけど、とハルは続ける。
「やっと確信が持てた。うん。大丈夫」
ハルの耳が赤い。寒さによるものか、それとも。
「わたしは、アキが好き。友達としてじゃなくて、異性として好き」
そう言ってハルは小さくごめんねと付け足した。
「こんなギリギリになって言われても困るよね」
「僕は――――」
「いい。返事はいい。断られても、受け入れられても、どっちでも辛いから。……ごめんね、こんな一方的に、身勝手に告白しちゃって」
別れ道にたどり着く。そこで僕たちは足を止め、お互いに向き合った。無言で見つめ合う僕たちのこの短すぎる距離の間に無数の輝きが揺れながら落ちている。ハルの髪に雪が絡みつき、ゆっくりと溶けては濡らし、彼女を徐々に蝕んでいく。
僕は言った。
「……またいつか」
「うん。またね」
ハルが踵を返す。
僕はその小さな背中を見つめながら、そこに居続けた。今ここで彼女から目を離せば、もう一生彼女の姿を見ることはできないようなそんな気がした。確信のようなものがあった。
僕たちは別れ、お互いがお互いのいない世界に困惑し、それもいつしか普通になって、連絡はそのうち疎遠になり、いつの間にか互いのことをゆっくりと忘却し、違う誰かに恋をして、いずれは家庭を築き、そうやってすれ違いながら生きていく。
ハルはもうこちらを振り向かない。だから僕も目を逸らさなければならないのだ。
気づけば雪が強くなっていた。ちらちらと輝きながら白く煙る視界の中、ハルの姿もぼやけていく。薄れていくように、あるいは溶けていくように。雪の様だと思う。
空を見上げる。密度高く降り続ける結晶。もう少しで吹雪になりそうだなと思った。
僕は踵を返し、家路を急いだ。
□□□□
雪が強くなってきた。一つとして同じ形の無い冷たい結晶が、乾いた空気と共にわたしの身体に吹き付けては濡らしていく。その中を暫く歩き、ゆっくりと後ろを振り返った。でも、もうそこにアキの姿を見ることは出来なかった。ただ雪に沈んだ一本の道が伸びている。
歩むべき方向へと向き直り、再び歩き出す。
「わたしって、嫌な奴」
マフラーに埋めた自分の口が、無意識にそう呟いていた。最後の最後であんな告白のしかたをして、アキを困らせて、挙句返事すら拒んだ。『断られても、受け入れられても、どっちでも辛いから』そう言ったけれど、でもそんなもの嘘だった。会えなくなると分かっていてもでもやっぱり受け入れてほしった。彼の口から「ごめん」と聞くのが怖かった。気持ちを、想いを否定されるのが耐えられなかった。
世界に雪が積もっていく。孤独に咲いた雑草が、輝く純白の下敷きになり、民家は凍えて、わたしのことを責めるように固まらせていく。家に向かって歩む速度は自然と遅くなってこのまま永遠と帰れないんじゃないかと言う恐怖が湧き上がる。それはわたしの罪に対する罰なのだろうか。卑怯な女を苦しめる孤独な罰。
今、アキは何を思っているのだろう。わたしの唐突な告白についてどう思っているのだろう。もしあの時、返事を聞いていたら何かが変わっていただろうか。わたしが明日東京へ行き、会えなくなってからどのくらい彼はわたしの事を覚えていてくれるのだろう。人間は忘却する生き物だ。忘却することによって長い人生を歩んでいく。わたしも、いつかはこの日のことを何処かへ置いて行くのだろう。
アキじゃない誰かに恋をする時がやって来る。そう思うだけで泣きそうになった。目尻から溢れる熱い涙が瞬く間に冷たくなってしまう。
雪の勢いが確実に強くなっていく。視界は利かず、音は無くなり、身体は硬直し、歩いている道が不確かなものへと姿を変える。マフラーに顔を埋め、身体を小さくしてコートの中に逃げようとする。でも冷たい空気は無慈悲に下着の下に入り込んできて身体中を撫でまわす。奥歯がカチカチと音を立てた。
――――――ル。
わたしは吹雪の中、弾かれたように振り向いた。しかし視界は白一色に染まってしまっていて何もそこに認めることは出来ない。
――――――ル!
雪の向こう。アキの声が聞こえた気がした。
わたしはその方へ歩を進める。分厚い雪の壁を掻き分かるようにして地面を踏みしめていく。スニーカーの間から冷たい欠片が侵入し、靴下を湿らせる。
ふと、モザイクのような吹雪の幕に人影のようなものが見えた。こちらに向かって走ってきているように見える。
わたしは前のめりになりながらその方へと駆け出した。凍った地面がスニーカーのグリップ力を逃がし、何度も何度も転びそうになる。
影は未だ、わたしに向ってきている。マフラーが暴れ、空気中の氷を絡めとってはその重量を増やしていく。
わたしは駆ける。
どうか、幻想じゃありませんように。
どうか、わたしに対する罰じゃありませんように。
そう願い、祈りながら、わたしは雪の中を突き進む。
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