SIDE 公爵夫人

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SIDE 公爵夫人

「今日、王宮を出ていかれたよ」 帰ってきた旦那様が、いつものように「ただいま」とわたくしの頬へ口付けてから。 ・・・そう、仰った。 びくりと体が震える。 ルクリアさま・・・。 数日前にいきなり、離宮へ移ると決心なさったことは聞いていたわ。 最初は王宮にそのまま住んで、執務を手伝おうかしらと仰っていたのだから。 これで少しは肩の荷を下ろすことがお出来になるわと。わたくしはほっとしていた。 ・・・玄関ホールから、居間へ。 旦那様のエスコートで歩きながら。 わたくしは彼女への思いでいっぱいになる。 カーディ様のご崩御からこちら。ルクリアさまは寝る間も惜しんで執務に向かわれていたわ。その手腕は素晴らしく、大臣たちは口をそろえて誉めそやした。王宮官吏たちも、滞らぬ仕事ぶりに感嘆したと聞く。 気高く美しい、並ぶものなき賢妃。 これほどあの方にふさわしい称号もないわね。 もしもわたくしがあのまま王妃になっていても、彼女の足元にも及ばなかったことでしょう。 婚姻後の・・・披露の夜会ですでに。 わたくしにはとても敵わない方だったのだと思い知らされた。 あの言葉少なに恥ずかしがる可愛い女性はそこにはもう居なかった。 王太子妃となったルクリアさまは、堂々と立っていらした。 わたくしと・・・いえ、臣下ときっちりと線をお引きになって。王族としての態度でいらっしゃった。 ・・・変わらないところもあったわ。 もともと完ぺきだった美しい所作。もともとお見事だったダンスのステップ。 近隣諸国で有名なカーディ様に。いきなり現れた身分が低いらしい婚約者の噂。 どういう訳か。ルクリアさまの情報は婚姻まで隠されていて、尾ひれだらけの噂ばかり先行した。 ルクリアさまのご実家はもちろん。前王妃・芙蓉様がかなり情報統制にご尽力されていらしたわ。 そのせいで。 あの婚姻を見極めようとやってきた各国の来賓は、かなりの人数にのぼった。平民の女性なのではという噂まであったらしいから。 蓋を開けてみれば、従属爵位でいらしただけ。代替わりを終えて、ルクリア様はすでに。有名なフォーボート侯爵家のご令嬢となられていた。 その剣で有名なヘリコニア閣下の孫で。その魔力で有名なサルビア閣下のお子。 どんな女性かと訝しんでいた者たちは、ころりと態度を変えたわ。 最初は遠巻きにしていた各国の来賓たちは。彼女へお祝いの言葉を述べようと慌てて列をなした。 さすがルクリアさまは。他の大陸からの使者とも、通訳抜きで。そう、冗句まで交えて話をされていたわ・・・。 ・・・すごい方。 他の大陸の言葉など、わたくしはいまだに片言でしかないわ。 どの国の言葉も流暢に話されて。どの国の文化にも精通していらして。 来賓の方々は自国のことに詳しい彼女に驚き、喜んだ。 堂々としていながら、柔らかい態度。生まれながらとしか思えない気品。他国の王女殿下だといわれても納得できるほど。 誰もが、王妃になるために幼いころから学んできた方なのだと納得した。 フォーボート侯爵家と、アスター公爵家が企んで。 このセンセーショナルな婚姻に至ったのだと思い違いなさる方もいたほど。 あれだけの女性なのだもの。 もしも・・・恋を知る前に、カーディ様と出会えていらしたら。彼女は貴族の責務として、何の疑問もなく王妃になろうと思われたのではないかしら・・・。 そうすれば、お辛い思いなどなさらなくて済んだのではないかしら。 ・・・いいえ。 馬鹿なわたくしは自分の罪を軽くしたくてそんなことを考えているのだわ。 どちらの順番であっても、きっとふたりは思いあってしまったはずね。 わたくしがもっとうまく立ち回れてさえいれば・・・。 わたくしさえ、あの日・・・。 「こら」 ・・・唇を噛みしめていたらしくて。 旦那様は、親指でわたくしの唇をなぞられる。 「考え込むのはやめなさい。 彼女が王妃になったのは、お前のせいではない」 いつものセリフ。この事だけは、わたくしを慰めてくださる。 他の事では、意地悪しか仰らないのに。 ・・・いつだって『いいえ、わたくしのせい』と思うけれど。 ただ「はい」といつものように返事をする。 「それに。護衛が一緒についていった」 その言葉に固まる。 では! ルクリアさまは素直になられたのね?! はっきりと言葉にはできなくとも。 「カーディ様がいない今、新しい人生を」何度もそう進言してしまった。 だけどルクリアさまは、薄く微笑まれるだけで・・・。 ラナン様との未来を・・・考えてはいけないと思っていらした。 ・・・悔しいわ。 わたくしの言葉は聞いてくださらなかったのに。 「やっぱり、ラナン様に甘いのね」 彼のわがままをきっと聞き入れてしまわれたんだわ。 「ああ、久しぶりに笑ったね」 にやりと旦那様はそう仰る。 「君にもし。 彼女か。僕か。どちらかを選べと言ったら・・・。 ああ、返事はいらない。答えはわかりきっている」 今度は不機嫌? こんなわたくしを。旦那様は本当にそのまま娶ってくださった。 カーディ様のご成婚後。公爵家を興されて、このお邸へわたくしを伴ってくださった。 とても感謝しているわ。だけど・・・。 「わたくしは、ルクリアさまに忠誠を誓ったの。それは生涯変わらないわ」 「返事はいらないと、言っただろう。 はっきり聞きたくないよ。まぁ、でも。初恋は僕だろう?」 にやにやと嫌な表情をなさるから。 「そ、そんなことありませんわ」 つんと返事をする。 ・・・見栄くらい張らせていただきたいもの。 「違う? そんなはずはない。幼いころからずっと僕に夢中だったはずだ」 なんてことを仰るのかしら! 居間に控えてるマリーが、にやりとしてるわ。 そんな表情をしたら、旦那様にばればれじゃないの! ・・・でも彼女を窘める気にはならない。 婚姻するときについてきてくれた侍女のマリーには、今も頭が上がらないんだもの。 「旦那様にだって、初恋の女性がいらっしゃるでしょう? わたくしにだって、他の男の子が居ますわ」 胸を張って言ったのに。 後ろの言葉は最初から嘘だと見抜かれて、聞き流される。 「初恋の・・・女性?」 旦那様は訝しむような声を出される。わたくしの最初の言葉だけが、気にかかられたようだった。 ごまかそうとなさってるのかしら。なんだかムッとしてしまう。 「知ってますわ。あの船」 わたくしは部屋に飾られた船の模型を見る。 とてもとても大事にされているあの船を。旦那様は王宮から持ってこられた。 ひとりで眺めている時に。幸せそうに微笑まれているのを知っているわ。 「初恋の人の瞳の色だ、と仰いましたわ」 何度か、壊してやりたいと思ったこともある・・・。 旦那さまは少しだけ、慌てたようになさった。 「そ、そんなこと言ったっけ?」 仰ったわ。あの日・・・あなたの部屋で目覚めた日に。 忘れられるわけがない。その方は誰なんだろうと思うだけで辛かったんだもの。 「・・・しまった」 今すぐに口止めを・・・そう呟かれた時に。 部屋に子どもたちが入ってきた。 「「「お父様、お帰りなさい」」」 11歳・8歳・5歳。 随分口も達者になって。しっかりしてきたわ。 王子殿下、王女殿下ほどになれるとは思えないけど。 ・・・比べるべくもないわね。わたくしは母としてもルクリアさまには敵わない。 「あ、お前たち。ちょっと。あの船のことだが・・・」 旦那様が言いかけられた途端。 一番下の娘がにっこりと言った。 「おかあさまの瞳の色のおふねのこと?」 ・・・っ・・・。 わたく・・しの? まさか。 旦那様を見上げると・・・すごく焦っていらして。 ・・・本当に? あの船を。 どんなに大切にしていらしたか、わたくしはとてもよく知ってるわ。 ・・・胸が詰まって。 息まで苦しくなる。 ・・・わたくしが、彼を見つめたまま泣き出してしまったものだから。 「お父様がお母さまを泣かした!」 プラタナスさまは、勘違いした子どもたちに叱られておしまいになった。
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