序章

1/1
385人が本棚に入れています
本棚に追加
/291ページ

序章

その獣の前足は、赤く染まっていて。 ケガをしている・・・。 思わず近寄ろうとした私の腕を。彼が掴む。 「もう覚悟をしている眼だ。手出しはいけない。・・・こちらの介入を望んではいない」 頭の上から聞こえるのは抑揚のない静かな声で。 柔らかく握ってくれているけれど。私では振りほどけない力強さだ。 仕方なく、治癒は諦めようと彼を振り向く。その綺麗な藍色の目は暗く。獣をひたと見つめていた。 「それでも、顔を見せてくれた。最期に」そう呟く声は先ほどとは明らかに違う。感情があふれ出している。 ・・・その悲痛な声に。ぎゅっと心が痛む。 つられてまた獣のほうを見ると。ふいと方向を変えて。森の奥へ消えてしまった。これが最期。もう二度と見かけることは無いのだろう・・・。 見送る彼の手は知らず知らず握りしめられて。私の腕が痛いほど。 いつもなら、文句を言って振り払うところだけど。 彼がどんなに辛いか、今ではもう知っているから。 この人を。慰めたい。・・・私はとうとう覚悟を決めた。 卑屈になるのはもうやめる。 あなたに捨てられることを怖がって、このまま逃げていたって。 ・・・どうせいつか飽きられるのだもの。結果は一緒だわ。 なにか感じたのか、彼は。 掴んでいた手を離し、私の顔を覗き込む。 いつものように優しい瞳で、おもねるように私を見つめてくれる。 本当に綺麗な顔。これだけのイケメンが私を好きだなんて信じられないわよ。 彼を好きなのと、彼を信じるのは別なんだわ。 それでも。 私があなたを好きだってことだけは、認めるわ。 ずっと。・・・気づかないふりをして、きたけれど。 今。この瞬間この男は私のものだ。そして私と彼は同じものだ。 そんな自己陶酔くらいいいじゃないか・・・。 明日には、捨てられて泣くかもしれないんだから。 私は彼に飛びつく。 腰にしがみついて、ぎゅうううっと抱きしめる。寂しがらないで。私が居る。 身動き一つしなくなった彼を見上げると。すごくびっくりしている。 びっくりした顔までイケメンだわ。 彼はぽかんと開けた口を閉じて。 横を向き、ふううううっと大きくため息をつく。 それからやっと。 ゆっくりと震える手で。私を抱きしめた。
/291ページ

最初のコメントを投稿しよう!