話すこと

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 野島さんは私の涙の理由を真剣に聞いてくれた。 河村くんが路上ライブをしていたという事に驚いたけれど、それよりも母が口ずさんでいた曲が河村くんの歌だという事に驚いた。 母の歌っていた歌を思い出せた事、そしてその歌を野島さんが優しく歌ってくれた事。 嬉しい事ばかりだった。 「依子さんのお母さんは、河村くんがきっとミュージシャンになると思ってたんですね。僕も思ってましたから」 「私が音楽を続けていたらいつかは会えるって、そういう事だったんでしょうか。でも私はまだ、ミュージシャンでもなんでもないです」 「僕は今...依子さんの歌を聴きたいです」 野島さんは遠慮気味に言った。 私は戸惑った。 恥ずかしさもあるし、恐怖が何より強かった。 「野島さん、泣いてたんです。初めて野島さんを見た日、涙の跡が残っていて...」 野島さんは少し驚いた表情をした。 「その...実は...その日に作った曲があるんです」  野島さんが街灯の下で眠っていた日、家に帰って私はすぐに曲を作った。 久し振りに曲を書きたいと強く思った。 それまでは曲を書くのは日常の中で当たり前の事になっていて、ただなんとなくギターを弾いて作ったりしていた。 その日は心から作りたいと思ったのだ。  私は港で路上ライブをした。 観客は野島さんだけだった。 野島さんを思って作ったと言っても良い曲を歌った。 直接的ではない。 でも、涙について歌った曲だった。 孤独な夜を歌った曲だった。 「なんと言ったらいいんでしょうか。あの日の事が報われたような。あの日も、僕にとって大切な日だったように思える。感動しました。ありがとう」 初めて会った日に聞いた”ありがとう”と同じだ。 でも響きが違う。 野島さんとの距離が、一気に縮まったように思う。 「野島さんに聞いてもらえて良かったです。実は今日が初ライブなんです」 「そうとは思えなかったですよ。でも、少し伝わる緊張感が曲をさらに良いものにしていました」  野島さんは口数の少ない人だと思っていたけれど、思った事を真っ直ぐに、丁寧に伝えてくれる人だ。 私は野島さんの放つ言葉、声に惹かれていったのだろう。 「涙の跡」 野島さんはそう言い、ポケットからハンカチを出し、私の手に握らせた。
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