距離

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 花屋の仕事は楽しい。 楽しいと思える瞬間が少しずつ増えてきた。 想像以上に大変な部分はあるけれど。 でも今は前よりもっと大きな声で挨拶できたり、自分からお客さんの名前を呼べたり。 まだまだだけど成長はしていると思う。  一人の常連さんが 「そのうち慣れて、楽しくなるよ」 と言ってくれて、その一言をいつも思い出していた。  仕事が終わってからは、家でただのんびりしたり、たまには料理を作ったり、借りたDVDを観たり。 休みの日には、隣街の映画館に行ったりもしていた。  その日はお店の定休日で天気も良かったので、歩いて映画館に向かっていた。 すると途中にある電柱に迷子犬の張り紙がしてあった。 見ると、名犬ラッシーの犬種シェットランド・シープドッグだった。 私が生まれる前から実家で飼っていた犬の種類だ。 最近この犬種をあまり見かけなくなったな...と歩き出すとその電柱の裏に映画上映会というポスターも貼られていた。 9月と10月、2ヶ月分の予定が書かれてあって今日の日付を見ると13時~「TAP」。 場所も今から行く映画館より近く、さらに「TAP」は一度DVDで観た事があり大きいスクリーンで観たらもっと感動すると思った。 上映会に興味もあったので行ってみる事にした。  会場は三階建の古家という感じだった。 「ミニシアター」と、時代を感じさせる看板がでかでかと入り口のドアの上にあった。 横の掲示板には町内会の案内や昔の映画のポスターなどが貼ってあった。 到着時刻は12時20分。 入り口は硝子扉になっていて、中が見えた。 まだ誰もいないような気がするな... 「あれま、お花の依子ちゃん」 と、後ろから聞き覚えのある声がした。 振り返ると花屋の常連さんの吉岡さんがいた。 吉岡さんは亡くなったご主人に供えるお花を買っていく。 いつも笑顔で私を和ませてくる素敵な人だ。 「こんにちは。上映会に来たの?」 「はい。さっきポスターを見つけて、初めてなんです」 「そうなの。私は毎回のように観に来ているの。入りましょう」 吉岡さんに促され、中に入ると、映画で観た事あるような昔ながらの映画館だった。 素敵で、辺りを見回してると 「こんにちは」 と受付の方から声を掛けられた。 入り口から差し込んだ光が眩しくて、目を細めている人。 低く響く声。 再会。 何故か嬉しかった。 吉岡さんはその人に向かって 「今日は二人なの」 と私の方をチラッと見た。 その男の人は 「初めまして、ようこそ」 と言った。 私も 「初めまして」 と言った。  酔っ払っていたのでやはり覚えてないか... 一方的な再会になってしまった。 吉岡さんとその人は親しげに今日の映画の事を話している。 私はチケットを買うと二人から離れ、飾られたポスターなどを見た。 すると、急に雨が降ってきた。 かなりの強さだった。 「これじゃ、さらに人が集まらないな。観客は二人だけかもしれません。ここはご近所のおじいさん、おばあさんが来る事が多いんです」 と、外を眺めていた私の隣に来てその人は言った。 私が返事に迷ってただ微笑むと、吉岡さんが 「まあ、よくある事ね。頑張って!」 と軽くチアガールのような動きをした。 それを見て三人で大笑いした。 少し緊張が解けた時、その人は 「野島と言います。一応ここの館長をしています」 と挨拶してくれた。 私も挨拶しようとすると、吉岡さんが私の紹介をした。 口を開きかけた私を見て、野島さんは笑っていた。 顔が熱くなる。  時間になり上映会が始まった。 観客は本当に二人。 贅沢すぎる時間。  上映終了後、野島さんが珈琲を淹れて三人で少し休む事になった。 雨はまだ降り続いていた。 「あの事言ってもいい?」 と映画の感想を話した後、吉岡さんが野島さんに聞き、聞いておきながら許可は得ずに彼が写真家である事を告げた。 「凄い人なのよ。カメラマン」 とニヤニヤしながら野島さんを見た。 「やめて下さいよ。写真だけじゃ全然ダメだからここでも働いているんですから」 と恥ずかしそうにしていた。 「本当に野島さんは謙虚なのよ~」 私はカメラを側に置いて遠くを眺めていた野島さんを思い出した。    ふと硝子の扉に目を向けると入り口の端っこに何かが見えた。 私は少しずつ近づく。 「どうしました?」 野島さんが聞く。 「あ!」 そこにいるものと私の一つの記憶が結びついた。 扉を開けて駆け寄る。 ポケットからハンカチを出して、濡れた体を拭いてあげる。 野島さんが 「その子は?」 と近づいてきた。 「迷子です!迷子犬!!!」
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