屋上で

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屋上で

 それは突然訪れる。 テレビを見て笑った時、冷蔵庫を開けた時、家の鍵を掛けた時。 決まりがなく訪れる。 そしてこの街の景色を見た時。  母はよくこの街が好きだと話していた。 「今度、一緒に行こう。お父さんと出会った場所に行こう」 辛い時母はそう言いながら私を、そして自分自身を理想の未来へと導き、励ました。 父は私が生まれてすぐに死んでしまった。 夢を真っ直ぐに追う少年のような人だったらしい。 夢に向かって進んでいる真っ最中での別れだったとも聞いた。 父の事を話す母から悲しみを感じる事はなく、まるで今でも父が生きているように穏やかな表情で話していた。 私が越してきたこの街について話す時も、そんな表情だった。 「私たちはそれぞれ別の人と初デートするはずだったの。 二人とも相手の人が来なくて、一時間経った頃にお父さんの方から話し掛けてくれて」 母は目を細め微笑んだ。 「結局そこから二時間お父さんと沢山話した。もう初デートはどうでもよくなるくらい。テレビの話とか趣味の話とか、本当に他愛のない話。後から分かったんだけど、お父さんはデートじゃなくて、お義母さんと食事に行くんだったんだって。それが恥ずかしくて嘘ついたみたいよ。中学生じゃないんだから」 母が話した、この出会いの街の話はそれだけ。 ただ、時々旅番組を見ていると 「綺麗な景色だけど、やっぱりあの街の公園と港が一番だな。本当に好きだった。空気感かな、澄んでるの」 と、生き生きと話すのだった。 私は母から聞く父の話がとても好きだった。 母にとてつもなく会いたくなる。 それは突然訪れる。  上映会の日がやって来た。 あの虹を見た日からずっと待ち焦がれていた。 午後からの上映で到着したのは一時間前。 中に入ると人が多く賑やかだった。 休憩室で話している人が沢山いた。 野島さんがすぐに 「こんにちは」 と受付から言った。 受付まで行き 「こんにちは。ずっと楽しみにしてました」 素直な気持ちが口から出た。 自分でびっくりして顔が熱くなった。 多分少し赤くなってしまったはずだ。 野島さんは優しく微笑み 「嬉しいです」 と答えた。  チケットを購入し、私は屋上に行ってみる事にした。 吉岡さんがこの間の帰り道に、ここの屋上で休憩すると言っていたのだ。 屋上のドアを開けると、ベンチが一つだけ置いてあった。 日当たりがよく柔らかい風が気持ちよかった。 私はボーッとこれからの事を考えた。 母と暮らしていた時以来の気持ちだ。 何だか心が少し落ち着いている。 この街にはそういう力があると思った。 そして、出会いが大きいとも思った。 野島さんが気になる。 初めて会ったあの日から。 遠くを見つめていたあの日だって。 ずっと気になっている。  虹を二人で見た日、私は野島さんに恋をした。 本当は出会ったあの夜から恋していた。 でも心は、二人で虹を見た日にそれを恋だと認めた。  ドアが開く音がした。 野島さんだと瞬時に思ってしまう。 不思議な感覚だった。
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