彼女の声が聞こえる

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 あのことが起こるまでは、今日もいつもと同じ今日だった。   僕が藤川万美(ふじかわまみ)と付き合い始めたのは、高校2年の夏休み前だった。 「(さかい)君、彼女いるの?」 「ええ? まさか、いるわけないよ」 「ええ? なんで? 境くんなら彼女がいてもおかしくないのに」 「本当? じゃ、藤川さん、彼女になってくれる?」  軽い冗談に軽い冗談を返したつもりだった。 「うん。いいよ」 「え??」  何が「いいよ」なのかわからなかった。だって藤川さんは学年でも有名な美人だ。彼女と付き合いたいと思っている男は、この世にいくらでもいるだろう。大きくてこぼれ落ちそうな目とバランスの取れた口、目と目の間辺りから、ちょっと鍵型に膨らみながらすっきりしたラインを示している鼻、そして、丸くも尖ってもいない顎、すべてが完璧だった。  その上、特別進学クラスの中でも常にトップを守り、6月からはテニス部のキャプテンになった。まさに学校のエースといっていい存在だった。下校途中にテニスコートで練習する彼女を見かけたが、長い手足を器用に使い、全身をバネのようにしならせラケットを振り切っていた。彼女のスマッシュを打ち返せる者はいないだろう。まさに才色兼備だ。こんな女子は、漫画でしか見かけない。  それに比べて僕は、クラスカーストの最下層をさまよっていた。勉強は中の下、スポーツはまるでダメ、せめて文化系で活躍できればと将棋に入ったが、一年以上未勝利のままだ。いわゆる「モブキャラ」の代表のような存在。  彼女と付き合うことを夢見る男は、きっと、自分と見比べ「無理」という単語で納得し、僕のように友達でいられることで満足するのだと思っていた。 「藤川さん、これってドッキリ?」  僕は、柱の陰や教室の中に誰かが隠れていないかとキョロキョロした。きっと不用意に返事をした瞬間、誰かが物陰から「ドッキリ」の看板を持って出てくるような気がしてならなかった。もし、そんなことになったなら、あと1年半以上残っている高校生活は、さらに真っ暗になってしまう。 「境君って本当は冗談がうまいんだ!」  そう言われても信じられるものではない。半信半疑の僕は、ここで「YES」の返事をするべきかどうかじっと悩んでいた。あまりに黙り込む僕に藤川さんが業を煮やしたのだろう。 「ダメならはっきり断ってくれたほうが、私もすっきりするから」  爽やかな表情だけど、どこか悲しげな目で見つめてきた。これが演技でもかまわない。ドッキリで笑いものになっても、一瞬でも藤川さんのこんな素敵な一面を見ることができたのだから悔いはない。 「藤川さんが本気なら、僕は藤川さんのことがずっと好きだったから、付き合ってくれたうれしい」  日本語になっているのかいないのか、なんだかよく分からない返事をしてしまった。でも、藤川さんは満面の笑みで喜びを表現してくれた。 「よかった……。もしだめだったらどうしようって思って、ずっと眠れなかったんだ」  そう言って喜ぶ藤川さんを、僕は「世の中、何が起こるかわからない」という不思議な気持ちで見つめていた。  僕たちはそれから、毎日、一緒に学校に来て、彼女の部活動が終わるのを待って、一緒に登下校するようになった。僕たちが付き合い始めたことは、すぐに学校中の噂になった。  「おい、境! 何でお前が藤川さんの彼氏なんだ? どんないい方法があるのか教えてくれよ」  何人もの男友達から聞かれたが、自分でも何が何だかわからなかった。まさか、藤川さんから声をかけてくれたとも言えなかった。  彼女は、付き合い始めた頃、まわりからいろいろ聞かれたと話してくれた。「境君の魅力ってどこなの?」と質問されたり、「万美って変わった趣味してるよね?」と言われたりしたとケラケラ笑っていた。たぶん、僕が傍観者の立場なら同じことを思っただろう。彼女に言い寄る男子は多い。藤川なら自分の理想とする男子に巡り会うまで、誰とも付き合わなくったって平気だろう。そして、きっとおとぎ話の王子様のような人と出会い、幸せな毎日を送ることができる女性に違いないのだ。 「境君の魅力ってどこなの?」  それは僕が一番聞きたいことだった。多分それは、彼女と付き合える自分であることに自信がないから。そして、自信がないから、いつ別れが来てもおかしくないと思ってしまうから。 「境君の良さがわからないなんて、ホントにみんなの目は節穴なんだから。でもみんなの目が節穴だから、境君と付き合えたんだし、よかったんだけどね」  僕の疑問に対して、彼女はいつもこんなふうに答えてくれた。でも、僕から言わせれば、藤川さんの目が節穴なんじゃないかと思う。自信のない僕は、藤川さんの前でいつもビクビクしていた。この関係がすぐにでも終わってしまうんじゃないかと思うと、怖くて仕方がなかった。  登下校を一緒にするようになって二週間経った頃だった。 「いつまでも境君が藤川さんって呼ぶの、ちょっと、抵抗あるんだけど」  彼女は冗談のように切り出した。 「だって、恋人同士が『さん』付で呼び合うっておかしくない?」 「藤川さんも僕のこと境君て呼んでるから……。」 「ああ、確かにそうだね」  彼女はケラケラと笑った。 「じゃ、今日から私のことは『万美』って呼んで。私は『広輔』って呼ぶから」  そう言われて、初めて彼女が本気で僕に好意を持ってくれていると思えるようになった。 「広輔はこれから『僕のどこがいいの?』って聞かないこと! だって、私が本当に広輔のこと好きなのはわかってるでしょ?」  いくらそう言われても、他の男達と比べて、僕の何が優れているのかわからなかった。でも、万美は僕の何かを見て好きになってくれたのだから、素直に喜ぶべきだと思うようになった。  人生の中で、こんな女性と付き合えるのは最初で最後かもしれない。そう思うと、後悔したくなかった。彼女といる時間を精一杯、充実したものにしたいと思うようになった。 「付き合った最初の頃は、もし、付き合って一緒にいる時間が長くなったら、私が思っていた広輔とぜんぜん違う広輔だったらどうしようと思って、すごい不安だったんだ。だって、広輔は私の理想の人だったから。でも、一緒にいる時間が長くなると、やっぱり、広輔は広輔だった。本当に安心して好きだって言えるようになった」  心の中では、万美の期待を裏切らないようにしないとと思う部分もあった。でも僕は器用に自分を作れるような人間ではなかった。万美と付き合う前と同じで、僕は僕でしかいられなかったが、万美の言葉で「自然でいいんだ」と思うことができた。毎日、少しずつ肩の力が抜けていくのがわかった。  僕たちの交際は順調だった。1学期の期末テストに向けて、二人で図書館で勉強した。万美が出る大会には、必ず応援に行った。勝った瞬間、いつも、僕の方を見て、右手を高く突き上げた。そして、負けると僕の肩に顔を埋めて、ずっと泣いていた。  部活のない日はプールで楽しんだ。花火を見に行き屋台のたこ焼きを分け合い、かき氷を半分食べて交換した。僕たちの夏休みは「THE 高校生の交際」とまわりが驚くほど純粋で、そしてこれ以上ないほど楽しい時間だった。  夏休みが終わり、二学期が始まるとすぐに、僕の誕生日だった。 「これ、誕生日プレゼントなんだけど……」  グランド脇のベンチに座り、お昼ごはんを一緒に食べた時だった。万美はちょっと顔を赤らめながら、握った右手を差し出した。まるでドングリか何かを渡してくれるような仕草だった。 「ありがとう……」  戸惑いながら、掌を開いていると上からワイヤレスイヤホンが一つ落ちてきた。 「本当は、ちゃんと買って渡そうと思ったんだけど、お小遣いは全部、部活の方に行っちゃて……」  よく見ると、それは彼女がいつも使っているワイヤレスイヤホンだった。 「私のワイヤレス、左右分離だから別々に使えるんだ。だから、片方あげる。お小遣いが貯まったら、新しいの買うから、今はこれで許して」  万美は恥ずかしそうだった。でも、僕は本当に嬉しかった。新しいのをもらうより、万美が今まで使っていた、万美の気持ちが詰まっているものをもらえたのが嬉しかった。 「ありがとう」  僕は心からの笑顔でお礼を言った。ちゃんと、僕の気持ちが伝わったか不安だった。 「広輔は本当に優しい」 「ええ? 違うよ。本当に嬉しいんだよ。だって、万美が大切に使っていた物を僕も大切に使うことができるんだから。新しい物なんていらないよ。でも、充電はどうする?」  二人で顔を見合わせた。しっかりしているようでちょっと天然な彼女、それを知っているのは学校中で僕だけだと思うと無性に嬉しかった。 「本当だ……どうしよう。そんなこと考えてなかった」 「じゃ、家でケースの充電をしてくる。学校にいるときは使えないから、学校で充電して、それぞれが持って帰る。それでどう?」 「広輔って頭いいね」  二人の笑いが昼休みのグランドに響いた。 「万美は誕生日、何がほしい?」 「私は広輔がほしい物、すぐにわかったよ。だって、一緒に歩いていても、ワイヤレスイヤホンが売ってあると、歩くのが遅くなるんだもの。だから、私をよく見ていたら何がほしいかすぐにわかるよ」  僕の気持ちを試すように万美が言った。試されているのに、言葉にできないほど嬉しかった。  「ごめん。今はわからない。12月の誕生日までによく観察しておくけど、もしもの時は……。」  いたずらっぽく笑いながら言うと、彼女はちょっと拗ねたような顔をした。  秋の気配が色濃く漂ってきたある日、僕は駅のホームで彼女を待っていた。本当は何月何日かはっきり覚えているのだが、忘れたい出来事があった日の日付は覚えないようにしている。  今日は、たまたま早く目が覚め、いつもより早い時間に駅に着いた。郊外から市街地に向かう電車は、いつも満員だが、僕たちが乗る電車はそれとは反対に向かう。市街地に向かう電車のプラットホームはごった返していたが、こっちのホームで待つ人は十分の一もいない。みんな静かに30分に1本の電車を待っていた。  万美が来るまで、音楽でも聴いていようとイヤホンをつけた瞬間、 「わっ!」  万美が大きな声を出しながら、後ろから「トン」と突いてきた。軽く突かれたのだが、僕が振り向くのとちょうどタイミングが合ったのだろう、ワイヤレスイヤホンが外れた。フワフワと空に舞い上がり、プラットホームでワンバウンドしてから線路に落ちていった。 「あっ!」 「ごめん。ごめん。すぐに拾うから大丈夫」  声を上げると、すぐにホームに飛び降りた。彼女を制止する間もなかった。 「見つけた!」  彼女がこちらを見上げてそう言った瞬間、すぐ近くで悲鳴が聞こえた。悲鳴の方を見ると、電車が迫っている。そこからはすべてがスローモーションで進んでいった。 「カッ」  小さな音がした。僕には彼女の頭に軽く電車が触れたように見えた。しかし、倒れ込んだ彼女は動かなかった。一瞬の静寂の後、だんだんと周囲の音が大きくなっていく。そして気がつくと騒音のような話し声が僕を包んでいた。 「君? 大丈夫? 何があったの?」  誰かが僕の両腕をつかんで身体を揺らした。 「君、大丈夫か?」 「救急車、救急車!!」 「どこの生徒? ねっ? 学校どこ?」  何が起こっているのかよくわからなかった。ただ、何もできずに立っていた。ホームの下には、万美が横たわっていた。 「悲鳴じゃなくて電車のブレーキの音だったんだ」  僕は心の中でやけに冷静なもう一人の自分が呟いていた。  次に気が付いたとき病院にいた。彼女が眠るベッドの脇に立っていた。さっきまで彼女に付けられていたチューブや器具は取り外され、誰かのすすり泣きが聞こえてくる。  僕の両親が彼女の両親に頭を下げていた。意味もわからず涙があふれでた。涙を流すことは彼女が居なくなったことを認めることになるのだと言い聞かせた。でも、ずっと、ずっと、ずっと止まらなかった。涙ってこんなに流れ続けることができるのだと、もう一人の僕が僕を見つめていた。 「あの子は、境君のことが大好きだったから、最期にあなたと居ることができて、本当に幸せだったんですよ」  お母さんはそう言いながら、万美が最期まで握って離さなかった右側のイヤホンを僕に渡した。  「あの子の形見だと思って、持っていてください。万美はそれが一番嬉しいと思うから」  僕は両手で包み込むように受け取った。万美のお母さんは左側のイヤホンも僕に渡そうとしたが、僕はそれを断った。ワンセットのイヤホンを二人で分け合って使っていたのだ。万美が居ても居なくてもそれは変わらなかった。左側は万美と一緒に煙になって空に上って行った。  それから僕はいつも右側だけのイヤホンをつけて生活した。音楽を聴いている時も聴いていない時も、いつもイヤホンは右耳につけられていた。  授業中にイヤホンをしてはいけないのは当たり前のことだ。しかし、担任も教科の先生もみんな黙認してくれた。友人たちも普通に話してくれる。僕の耳にイヤホンがつけられていても、誰も何も言わなかった。  学校中の人達が僕を見ている気がした。その視線は、哀れみや同情ではなく哀悼だった。僕はみんなの心遣いに、しばらく甘えさせてもらうことにした。右耳のイヤホンが僕を支えてくれた。たぶんそれがなくなったら、大声を上げて泣いてしまうに違いない。でも、イヤホンがあれば万美を感じられる。万美が僕の中で生きていると思うことができた。  イヤホンをつけて生活するようになってから、1週間ほど経った放課後、担任から職員室に来るように言われた。  「ちょっと言いにくいんだが……悪いがテスト中はイヤホンをはずしてくれないか」  電子機器を使った不正行為がニュースを賑わせたのは数年前のことだった。外からの電波を使って簡単に不正行為ができるほど通信機器は進化してしまった。だから、イヤホンをカンニングに使うことも簡単にできるに違いない。僕が不正行為をすると思っているわけではないことを、先生は一生懸命説明してくれた。たぶん、担任だけでなく、クラスの誰もが、イヤホンを付けている目的を知っていた。だから、誰も僕がカンニングに使うとは思っていないはずだ。みんなの好意があるからこそ、イヤホンを外すべきなのはわかっていた。  僕は返事に困ってしまった。心は「嫌だ」と言っている。理性は「当たり前のこと」と理解していた。僕は何の返事もできないまま、じっと黙り込んでいた。 「境、お前の気持ちはわかる。いや、そういう言い方は失礼だな。お前の気持ちはお前だけのものだから……。たぶん、理解できていると思う。クラスのみんなも、たぶん、学校中のみんなも理解してくれると思う。でも、テストの時だけは我慢してくれないか」  先生の顔には、いつも困ったときに見せる表情が貼り付いていた。先生を困らせようと思ってはいないし、理性で解決するべき問題だとわかっている。でも、返事の言葉が出てこない。言葉を出そうとすると涙があふれそうになった。1週間前の出来事が頭の中を駆け巡った。 「もーっ! 広輔! 先生かわいそうだから、テストの時だけ外しなよ」  ドッキっとした。右耳に響く声は聴き慣れたものだった。 「いいじゃない。イヤホンを外したからって私たちのことが消えるわけじゃないんだから」  僕は周囲を見渡した。当然、面談室には僕と担任しかいない。 「境、どうした?」  先生の顔は、ちょっと焦っていた。自分が言ったことで、僕の挙動が不審になったと思ったのだろう。  僕は早く独りになりたかった。右耳に響いた声の主を確かめたかった。 「いえ、大丈夫です。わかりました。テストの時は外します」  そう言って席を立って部屋を出ようとした。 「おい、境、本当に大丈夫か? 無理をしなくてもいいんだぞ」  心配そうな担任の声がする。 「本当に大丈夫ですから」  僕は振り向くこともせず、出口のドアを開けながら返事をした。今、先生と話をする余裕はなかった。 「広輔! 何を慌ててるの?」  右耳からは聴き慣れた万美の声が響いた。 「どうなってるんだ?」 「私にもわからないけど、もっと広輔と一緒にいたいと思って……。思い切って話しかけたら広輔に聞こえたみたい……」 「じゃ、万美は今、どこにいるの?」 「う-ん、どこなんだろう。天国とか極楽とか言われる場所ではないと思うんだけど……。でも嫌な所でもない。空気がキラキラしているし、なんだか明るい場所」 「僕のことは見えるの?」 「う~ん……。見えるって言うより感じる。さっきは広輔が困っている気持ちとその表情が浮かんできた。でも、先生の気持ちも伝わってきたら、きっと、広輔に関係する人の気持ちは全部、伝わってくるんだと思う」  万美の言葉に救われた気がした。もしも、暗いドロドロした所に万美がいたとしたら、僕はすぐにでも救出に行こうとしただろう。  「じゃ、これからずっと、こうやって一緒にいられるってことなのか?」 「ごめん、私にもわからない。でも、今はこうやって話ができる。わかるのはそれだけだし、それは確かなこと」 「そうだよな。うん。わかった」  なぜ万美が僕と話せるようになったのか、万美自身もわからないのだから、彼女を問い詰めても仕方がない。万美と話せることを素直に受けとめよう。そうしないと、彼女は消えてしまうような気がした。  僕は家にいるときも通学中も学校にいるときも、ひとりでぶつぶつ喋っていた。自分は万美と話しているつもりだが、周囲からは奇異の目で見られた。 「境、お前、大丈夫か?」  担任は心から心配しているようだった。友人達も僕の様子がおかしくなったとわかっているのだが、誰も声をかけることはしなかった。ただ、僕の様子を遠巻きに見つめていた。 「よかったら、カウンセリングの先生を紹介しようか? みんなも心配しているぞ」  先生の優しさは痛いほど伝わってきた。 「ありがとうございます。でも、調子はいいですよ。気持ちも以前に比べるとずいぶん楽になっていますから」  そう答えても、担任も周囲の目も、僕がおかしくなったとしか思っていないのがわかった。 「学校にいるときは話すのやめようか?」  万美の声が心配している。 「いや、今は少の時間でも万美と一緒にいたい。でも、万美が気になるなら、控えてもいいけど……」 「私も広輔とずっと話していたい。でも、ずっとは無理なんだろうなぁって感じる。だから、今だけでも話していたい」  彼女の気持ちが嬉しかった。でも、彼女の気持ちがわかるから、よけいに悲しい。その悲しさを振り切るように、僕と万美はずっと話し続けていた。  たしかに、どんな人でも、独りでぶつぶつ言いながら笑っている人がいれば、不思議だし怖いかもしれない。知っている人なら心配になるだろう。しかし、僕は万美とのたわいない会話をすることで、彼女を失った悲しみを忘れようとしていた。だが、なんとなく、この時間がそんなに長く続くことはないという予感もしていた。  藤川と話し始めて1ヶ月が経った。 「広輔、お願いがあるんだけど。」 「うん? どうした?」  いつもなら、どんなことでも気軽に話す万美の声が、急に改まった様子になった。その声の調子に僕の心に緊張感が漂った。 「お母さんに会いに行ってくれない」 「いいけど……」  万美の頼みが嫌なわけではない。万美の家には彼女のお葬式以来行っていない。彼女の御両親と会うことで、万美がこの世にいないことを確認してしまうような気がしたからだ。だが、ここで万美の頼みを断れるような僕でないことは、万美もわかっていたのだろう。  日曜日の朝、彼女の願いを叶えるために玄関のベルを押した。僕を待っていたように、万美のお母さんは玄関の戸を開けてくれた。 「さあ入ってください。待っていましたよ」  そう言ってお母さんは僕を招き入れ、玄関を入ってすぐ右の部屋に案内してくれた。 「実はここに万美の仏壇を置こうと思っています」  お母さんは日当たりのいい六畳の和室の角を指さしながら言った。 「仏壇ですか?」 「ええ、万美がいなくなった受け入れられなくて、仏壇もお墓もつくってなかったのですが、でも、やっぱりダメだなって思って」  そう言いいながらお母さんが視線を向けた先には、小さな白い壺が置いてあった。 「万美さんですか?」 「はい。私たちの気持ちが整理できないからって、こんな部屋の隅に万美を置いておくわけにはいかないって思えるようになってきましたから」  僕はすべてが理解できたような気がした。万美が僕と話せるのも、今日、ここへ訪ねるように言ったのも理由があったんだ。 「信じてもらえないと思いますが、僕は今も、万美さんと話をしています」 「ええ、わかってますよ」  そう言うとお母さんは、耳からイヤホンを取り出した。 「境君には言えなかったんですけど、万美のイヤホン、どうしても燃やせなくって……」 「じゃ、お母さんも?」 「そう、万美と話していたの。そして、私と境君に今日、別れを告げるからって……。」 ―そうなんだ。もう、万美と話せないんだ―  前からわかっていたことだったような気がした。しかし、前のような悲しみの涙はあふれてこなかった。これで万美は安心して旅立てるんだ。  お母さんがいてもかまわなかった。僕は最期に万美にずっと気になっていたことを質問した。 「万美は、僕のどこが好きだったの?」 「え? まだわからないの?」  万美の声が頭の中に響いた。 「あの日、広輔、いつもより早く駅に来たでしょ?」  あの日とは、万美がいなくなったあの日を指しているのだとすぐにわかった。 「うん。いつも万美を待たせているから、たまには待っていようかなって思って」 「実は、あの日、私も少し早く駅に着いたの。たまたまだけどね。そうしたら、広輔がおばあさんの荷物を持って階段を上がるところだった」  おぼろげな記憶が蘇ってきた。あの日、階段の下で万美を待っていたんだ。そうしたら、おばあさんが大きな荷物を持って、エレベーターに向かって歩いていた。 「おばさん。エレベーター故障中ですよ」  声を掛けて、おばあさんから荷物を預かったんだ。 「ありがとうね。最近の若い人は年寄りは汚いものだと思っているのかと勘違いしてたよ」 「そんなことないですよ。みんな恥ずかしがり屋なんです」  そんな他愛もない会話をしていたような気がする。たぶん、エレベーターの修理が早く終わればいいですねと言ってホームにあがったところで荷物を返したんだ。 「広輔、思い出した? 私が広輔を好きな理由もわかったでしょ?」 「えっ?」 「広輔って本当に鈍感」  万美の笑い声が耳の中で響いた。 「広輔は、誰にでも優しい。自分の利益なんて考えてないし、困っている人がいたらいつも助けてる。そんな広輔だから、みんなが心配してくれているんだよ」 「そんなこと、思ったこともなかった」 「だから、広輔は素敵なんだよ。広輔は知らないうちに、いろいろな人を助けているんだよ。だから、広輔を意識している女子は多いんだよ。みんなから助けられる広輔は、みんなを助けている広輔なんだよ。広輔、もう大丈夫だよ。私がいなくったってみんながいる」 「万美、そんなこと言うなよ……」 「大丈夫、だからもう前に進んで」  万美の声はちょっと寂しそうに響いた。 「万美……」 「お母さんにも今、別れを言ったの」  お母さんの顔は寂しそうではあったが、どこか安心したような表情だった。本当に万美は行ってしまうんだ。そして、僕は万美のいない人生を歩くことになるんだ……。 「境君、よかったらまた訪ねてきてくれない? その時には仏壇もできているし、万美のお墓にも案内したいの」  僕の気持ちを察したようにお母さんが言った。さっきまでの寂しそうな表情は消え、どこか晴れ晴れした雰囲気が漂っていた。 「はい。ありがとうございます」  社交辞令ではなく、心からの感謝の気持ちだった。僕が万美に語りかけることができる場所ができたのだ。いつつまずいても、万美に相談することができる。彼女はきっと、何も答えてくれないだろう。でも、万美に話すことで、きっと僕は答えに辿り着くことができる。そんな気がした。 「広輔、そろそろ行くね」 「うん。万美のことを忘れないから」 「そんなことわかってる。短い間だったけど、私、広輔と出会えて本当によかった。広輔といるといつも心が温かくなった。でも、広輔、人の幸せばかりじゃなく、自分の幸せを考えてね。自分を犠牲にしないでね。広輔がこれから送る幸せな人生がどんなだったか、100年後に会ったときに教えてね。私はそれを楽しみに、100年間、広輔を待っているから。」 「ありがとう万美」  そう言った瞬間に涙があふれ出た。でもそれは、悲しいだけの涙ではなかった。 「うん。バイバイ」  万美が答えた瞬間、イヤホンから万美が消えたのがわかった。万美に聞こえないのはわかっていた。でも、唇が自然に「ありがとう」と動いた。  そう言えば、あのことがあってから、今日で四十九日目になる。
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