『風呂を洗う。ひかりが、流れる』

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   「風呂を洗う。ひかりが、流れる」    あたしは仔猫である。名前はまだない。  名前が付く前に死ぬかも。だっていま、足から血が出てるから。  あたしの白いふわふわした足から、血が出ている。  いたい。さむい。さむい。いたい。  足も手もグラグラする。これは、あたしを持ち上げている子どもがゆするからよ。 「大丈夫だからね、治してくれるところに連れていくからね」  ほんとかな。そう思ったら、目の前がきゅうに、くろくなった。 🐈🐈🐈  足がちくちくする。何かされているみたい、足に。 「にゃーん」 「センセ、声がしたよ! この猫、死なない?」 「死なん。これは切創であって、まあ、縫合すれば大丈夫だろう」 「セッソーとか、どうでもいいけど。あっ、この猫、センセのとこで預かってね」 「ダメだ。わしは一人暮らしだ。お前の家に持って帰りなさい、澄(すみ)」 「むり。ママが猫アレルギーだもん。センセはママのおじさんでしょ、何で知らないの」 「姪っ子のアレルギーまで知らん」 「あっ、時間だ。また明日来るね、センセ」 「こら待て、澄! 猫の世話などできん。アキが亡うなって、まだ一カ月だ。一人暮らしにも慣れんのに」  バタバタ音がして。それからまた、ちくちくがはじまった。  あたしはもう、どうでもよくなった。ねむい。 「猫ちゃん、元気?」  ちくちくがおわって次の日から、この子どもはよくくる。あたしを見て、なでる。にゃーん、といってやると笑う。 「センセ、この子、いつ歩けるようになるの?」 「しらん。わしは人医であって、動物はしらん」 「ちくちくは上手いのに、わかんないんだねえ」  “センセ”はたくさんしゃべらない。でもおいしいものをくれる。お水も飲ませてくれる。ここは暖かくて雨も降らない。ゆっくり眠れる。  あたしはあくびをする。 「あくびしたよ」 「猫もあくびぐらいする」 「それよりセンセ、ごはん食べてる? ママが心配してるよ」 「お前のママがどんどん持ってくる」  女の子は立って、大きな白い箱を開けた。あたしはじっと見る。あの白い箱からは、おいしい魚の匂いがするんだ。  女の子が言う。 「センセ。昨日のすき焼き、食べてない」 「今日食べる」 「おとといのハンバーグも」 「今日食べる」 女の子は、ぱたんと箱をしめた。 「お風呂、ちゃんと入ってる?」 「今日食べる」 「お風呂は食べないよ! アキおばちゃんが亡くなってから、センセはダメだねえ」  どうも。あたしをちくちくしたセンセは、おせわの人と、はなれたらしい。  しかたないよね。あたしもママと、はなれちゃったし。おおきくなるって、そういうことだよ。でも代わりに、いいお友達ができる。  女の子はあたしのところに来て、何度も頭をなでた。 「あしたは、センセに“お風呂洗い”を教えなきゃ」  教える?   ちいさいものが、大きなものに教えることなんてあるのかな。  次に寝て起きると、女の子がいた。  白い粉をいれた袋にもってセンセに言う。 「四十五度のお湯がいるの」 「四十五度?」 「温度がだいじなの」 「いま、温度を測っておる――できた」  女の子はぺたぺた歩いて、見えないところへ行ってしまった。  センセも金色の入れ物をもって、ついていく。  あたしは、さむくなった。  いなくなると寒い。  だいじなことだ。おぼえておこう。  あたしは寒いのがきらい。だからゆっくり、足に力を入れた。  立ってみる。    立てた!  ゆっくりと、カゴからでる。イテテテ。  いたいけど、もう血は出ない。女の子の声が聞こえる。歩いていく。  すこしずつ、片方ずつ足に力を入れる。    痛い。とまる。痛くない。あるく。  そして女の子の横へ来た。女の子はセンセに言っている。 「魔法のお粉をお風呂の床にまいたから、床にお湯を入れるの。だいじょうぶ、お水入りの袋でふたをしたもん。お湯は抜けない」  ばちゃばちゃと、音がする。 「澄、このブラシで風呂を洗えと?」 「そうだよ。センセ、ホントにお風呂洗ったことないの」 「――アキが、やっておった」  ばしゃばしゃばしゃ。音がする。音しかしない。女の子もセンセもだまってる。 「アキは、亡うなった。風呂は自分で洗うことにする」 「あたしが洗ってあげるよ。ときどき」 「じゃあ、お前が来ない日は自分で洗う」 「週に二回、来てあげる。猫ちゃんが心配だから」 「うむ」  あたしは女の子にスリスリした。 「にゃーん」 「あっセンセ、猫ちゃん、立ってる! ここまで歩いてきたよ!」 「治るだろ。ただの創傷だ。わしがナートした」 「センセ、ホントに名医なんだねえ!」 「風呂洗いもできるぞ――澄、この白い粉、置いていけ。便利だ」 「うん」  ばしゃばしゃ。スリスリ。にゃーん。  そこには光がいっぱい入ってた。女の子が笑う。センセは笑わないで、ずっと動いていた。  ごしごしごし。  ざかざかざか。  センセの顔が、ちょっとだけ、ひかってた。  あたし、しってる。  猫も人も、だいじなものをなくした後は、ちょっと目から水を出すほうがいい。目から水が出たら、もうだいじょうぶ。  もう。  だいじょうぶ。 🐈🐈🐈  暖かい日がふえてきた。あたしは廊下に寝ころがる。ここが一番きもちいい。  おいしいものを食べて、寝る。これがあたしの仕事だ。  おっと、もう一つ大事な仕事があった。あたしはせっかく寝ころんだのに、起きて歩いていく。  目の前に足がある。スリスリする。  センセの声がした。 「こら、ニャン。フードを散らかすなと言っておるだろうが。お前は食べ方が下手だ」  うふふ。センセはわかってない。あのカリカリはおいしくないの。だから皿から散らかすのよ。  あの女の子なら、わかってくれるのになあ。  ま、いいか。だんだん教えていけばいいのよね。あの子がお風呂洗いを教えたみたいに。  スリスリを続けるうちに、外で音がした。  扉が開く音。風が入ってくる音。 「センセ! そろそろお風呂洗剤がなくなるでしょ! 持ってきたよ!」  あたしは飛んでいく。  大好きな女の子が笑っている。  スリスリスリスリ。 「わあ、すっかり良くなって、大きくなったねえ!」  女の子の後ろから、いいにおいの風が入ってきた。  風はもう、冷たくない。 【了】 2022年2月24日
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