秘密の刻

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秘密の刻

※鐘崎&紫月が想いを告げ合う前の両片想いの話です。  それは鐘崎と紫月が互いの気持ちを言葉に出して打ち明け合うずっと以前のことだった。  二人が想いを通わせたのは二十七歳の暮れである。それまでは互いに互いが好きだということは何となく分かっていたものの、どちらからもはっきりと告げることなく過ごしていたのである。  頃は春まだ浅い、花冷えの午後だった。実家の一之宮道場で午前中の稽古手伝いを終えた紫月は、昼食時にも作ったお好み焼きを再度焼いて届けようと鐘崎の元を訪ねた。 「今からなら三時のおやつにちょうどいいべ」  鐘崎は甘い物を好んでは食べない。休憩時間にはブラックのコーヒーや緑茶などは口にするが、甘味大魔王の自分と違ってクッキーやら饅頭といった茶菓子には殆ど手をつけないのだ。  そんな彼の小腹に納めるにはお好み焼きなどが打ってつけだ。焼き立てで、まだホカホカと湯気の立っているそれを大事そうにパックに詰めては、組事務所へと走った。 「紫月さん! いらっしゃいませ」  組最奥の応接室で幹部の清水剛が出迎えてくれる。この頃はまだ鐘崎姓にもなっていない為、名前呼びである。 「剛ちゃん、こんちゃ! 邪魔するぜぇ」  紫月は清水や源次郎らの分のお好み焼きを彼に手渡すと、 「遼は? 部屋の方か?」  事務所に鐘崎の姿が見えなかったのでそう訊いた。 「ええ。今日は珍しく用事が入っていないもので。若は昼飯の後、お邸の方へ引き上げられましたよ」  自室にいるだろうからと微笑む。 「おう! そっか。ンじゃ、ちょっくら行ってくらぁ」 「ええ、ごゆっくり」  清水に手を振り、鐘崎の分のお好み焼きを持って住まいの方へと向かう。組事務所と住居の棟は渡り廊下で繋がっているからすぐだ。 「遼ぉー、いるかぁ?」  自室に鍵はかかっておらず、勝手知ったる我が家のごとく扉を押し開けたのだが、昼間だというのに遮光カーテンが引かれていて、しかも灯りも点いておらず真っ暗闇だった。  出掛けたのだろうか――一瞬そう思ったが、何やらくぐもった声が小さく漏れ出していて、暗闇の中で時折微かにうごめく人の気配が感じられた。 (もしか具合でも悪ィのか?)  紫月は焦って、咄嗟に手にしていたお好み焼きを廊下の飾り台の上へと置き、鐘崎の様子を見んと部屋へ踏み入った。  ところが――である。 「……ッ、は……ぁ……クッ――!」  妙に艶かしいような低い声が断続的に漏れ聞こえてきて、思わずビクりと歩をとめた。  次第に目が暗さに慣れてくれば、ぼんやりとうごめくシルエットが広い部屋の中央――ソファの上で小刻みに揺れている。肩が上下し、その動きが強く早くなるにつれて、声もまた大きさを増していく――。  何をしているのか――など聞かずともすぐに分かった。 (うわ……やっべ! まさかマスベの最中だってか……?)  見てはいけない――とまでは言わないが、鐘崎からすればあまり知られたくはないお取り込み中なのは確かだろう。そう、つまりは自慰の真っ只中に訪ねてしまったというわけらしい。 (やっべえ……。こいつぁ……いくら何でも声掛けるわけにゃいかねえべ)  いくら幼い頃から遠慮のない間柄とはいえ、さすがに自慰の最中に不意打ちは気まずいだろう。そう思った紫月は、忍び足で部屋を後にせんとそっと後退りした。  鐘崎はといえば、コトに夢中でまったく気がついていない様子だ。そろそろクライマックスに近いのか、くぐもっていた嬌声も、雄を扱く手の動きもどんどんと激しさを増していく。  見てはいけない、いかに何でも失礼だ、頭では分かっているのだが、興味はそれを勝るか――無意識に足が止まってしまう。  早く退散しなければと思う反面、もう少し見ていたい気もして紫月は暗闇の中で染まった頬を押さえつつ、瞳をパチパチとさせてしまった。 (くっそぅ……暗視センサーでもありゃあなぁ。もちっとはっきり見えんだけっどもが……)  うーぬぬぬ、と目ん玉をひん剥く勢いでついつい凝視してしまう。 「……く……っは、紫……月……!」  ソファの上では闇の中で天高く仰ぎながらのけぞる鐘崎の逞しい肢体がシルエットとなって果てたようだ。  その瞬間、遮光カーテンの隙間からわずかに漏れていた細い陽の光が鐘崎の手に握られた冊子のような物を照らし出した。紫色のカバーがついたタブレット大の冊子だ。  ふう――と大きな溜め息と共にソファから立ち上がるシルエット。慌てて廊下へと飛び出し、お好み焼きを置き忘れたまま清水のいる事務所の棟へと全力疾走した。 ◇    ◇    ◇ 「おや、紫月さん。随分早いお帰りで。若はいらっしゃいませんでしたか?」  清水が事務の手を止めて不思議顔を向けてよこす。 「や、あの……いや、遼はいた! つか、いたと思うけど……その、ちょうどウチから電話きちゃってさ……! その……えっと、なんかそう! 稽古な、稽古! ご、午後の稽古が急に入って、す、すぐ帰って来いって親父が……」  そんなわけなんで俺はこれで――! と言い残し、紫月は慌てたように組を後にした。 「紫月さん……? あの、お気をつけて!」  清水はワケが分からず瞳をパチクリとさせながら見送った。  道場までは歩いてすぐだが、そのすぐすら猛ダッシュの勢いで紫月は足をもつれさせながら走っていた。 (やっべえ……マジやっべ! えれえモン見ちまった……。つか、ふ……ぐふふふ)  焦る傍ら、何故か顔の筋肉が自然とゆるんできては、意思とは裏腹に瞳がカマボコ型に弧を描いていくような感覚に見舞われる。 (やべえ……顔が勝手にニヤけちまう……。こんなん誰かに見られたら変質者と間違えられっぞ……!)  パンパンッと両手で頬を叩きながらシャキッとせんと鼻息を荒くする。 (けど、あの紫の本……あれ、ぜってーオカズだよな? 遼のやつ、いったいどんなの見ながらシコってんだべ)  俄然興味が湧いてしまう。  道場に帰ると、父の飛燕もまた、えらく早かったなと不思議顔をしてよこした。 「なんだ、遼二坊はいなかったのか?」 「うん、いた……。いや、いなか……いや、いたけどいなかったつか……」 「はぁ?」  ワケが分からんとばかりにポカンと口を開けた父を、愛想笑いでごまかす紫月であった。  一方、鐘崎の方はといえば廊下に出たところでどこからか旨そうな匂いがしているのに気付いては、こちらもまた不思議顔で首を傾げていた。 「お好み焼き……? もしかして紫月のヤツか?」  この棟まで入って来られる人間は限られている。その上、いかにも手作りといったお好み焼きとくれば紫月しかいないだろう。それを手に組事務所へ向かえば、ちょうど清水らも三時の休憩で同じお好み焼きを広げていたところだった。 「若! お疲れ様です! 今しがた紫月さんがいらして我々にまでほら、これを――」  お好み焼きをもらったことの礼と同時に『若はお会いになりませんでしたか?』と聞かれる。 「いや――俺は会ってねえが」 「そうでしたか。何でも若のお部屋へ向かう途中で道場の親父殿から至急帰って来るようにとお電話があったそうで。急に稽古が入ったとかで慌てて帰られましたが――」 「…………そうか」 「今、お茶をお淹れしますね。たいへん美味しいお好み焼きで!」  紫月さんは本当に料理がお上手ですねと言いながら清水が茶の支度をしてくれている。 「ああ、すまん……」  と言って座りながらも眉根が寄ってしまう。 (まさか――な。まさかあいつ……)  アレを見たってんじゃねえのか――? と、次第に心臓がバクバクと加速する。 (いや、道場の親父さんから電話があったってことだし、それで急いで帰っただけだろう……)  疑心暗鬼になる必要はない。鐘崎はそう自分に言い聞かせながらも、えらくそわそわとしたまま三時のティータイムを終えたのだった。  その後、スマートフォンを取り出してお礼方々紫月に宛ててメッセージを打った。  どうせ仕事も入っていない午後だ。会いにいくことも、はたまた電話で直接話すこともできたのだが、万が一アレを見られていたのではと思うと何を話していいやら言葉に詰まりそうだ。  こういう時にメッセージ機能は有り難い。  旨かった。ご馳走さん!  せっかく来てくれたのに会わずに帰っちまったようだが――また寄ってくれ。  とにかくは余分なことには触れずにお礼の短文に留めておく。しばしの後、明るい絵文字付きのメッセージが返ってきて、鐘崎はとホッと胸を撫で下ろすこととなった。  悪ィ!🙏  お前ン部屋に寄ろうと思ったんだけど、親父がめっさ急用だって電話してきてさ📞  おめえとはいつでも会えっからと思って、とりま帰った💨  お好み焼き旨かったべ?  食ってくれてサンキュなぁ😘  いつもと変わりのない明るい文面だ。それを見つめながら、鐘崎は愛しげに瞳を細めるのだった。 ◇    ◇    ◇  その数日後――鐘崎の部屋を訪れた紫月は、何ともそわそわと落ち着きのなく部屋の隅にある本棚に気を取られていた。 (紫の本、紫の本、紫の……おわッ、あった! あれだ……) 「紫月、ちょっと待ってろ。おめえの好きなケーキをな、忠さんに焼いてもらってんだ。茶淹れてくっから」  忠さんというのは鐘崎組の厨房を預かってくれている腕のいい料理人のことだ。今日は紫月が遊びに来ると知って、鐘崎が頼んでおいてくれたのだそうだ。  彼が部屋を出て行くのを見送りながら、紫月は急いで本棚へと駆け寄った。 (これか――! 遼のオカズ……覗き見っつのは気が引けっけど、ちびっとだけ……な)  悪いと思う気持ちよりも興味の方が先立ってならない。想像するにグラマーな女のグラビアか何かだろうが、いったいどんなタイプのものを見ているのか気になってしまうわけだ。  すまん! と手を合わせ、紫のカバーが掛かった冊子を抜き取ってパラりと中を開いた。想像とは裏腹に、それは固い台紙付きのアルバムだった。 「ンだよ、エロ雑誌じゃねんかよ……って……! ッゲ! ンだ、これ……」  中身は写真だった。しかもすべて自分――紫月――のものだ。 「やややや……ちょい待ちッ! こんなん……いつの間に……」  写っているショットはどれも覚えがあれど、中には見覚えのない寝顔らしきものも混じっている。背景からしてこの部屋の中なのは間違いないが、そういえば一緒にテレビを観ている最中などに寝入ってしまったこともままある。その時に撮られたのだろう。 (あんにゃろ……隠し撮りしやがったなー!)  そうは思えど、アルバム一杯に自分の写真だけというのを目にしながらフッと頬がゆるんでしまう。 (こんな……俺ン写真ばっか一冊にまとめてるって……。そういやあいつ、イく時に俺ン名前呼んでたっけ……)  つまり自分を想像しながらイったということだ。 (遼のやつぅ……お、俺をオカズにしながらヌいたってのか?) 「あぅあー! いったいどんな想像よ……」  激しく求め合うようなラブラブなシチュエーションか、それとも案外―― 「無理矢理モノだったりして……」  鐘崎に服をひん剥かれたり、あるいは腕を縛られたりして犯される――そんな妄想がブワッと頭をよぎり、瞬時に頬が熱を持つ。 「ぐ……ふふふふ。やっべえー……」  思わず地団駄を踏みながら踊り出したくなるほどに気持ちが高揚する。 (まあなぁ、マスかく時のオカズって案外ありきたりのシチュよか激しい妄想が多いっていうしな)  あの鐘崎も自分を組み敷く想像をしながら高みに昇っているのかと思うだけでみるみると頬が染まってしまう。と同時に、嬉しくて躍るような気持ちが沸々とし、紫月は思い切り瞳を細めてしまった。 「バッカ、遼……」  廊下の端からはカタカタと盆に乗せられたティーカップの音が近づいてくる。鐘崎が茶を淹れて戻ってきたのだ。  紫月は急いで紫のそれを本棚へと戻すと、何食わぬ顔でソファに寝転んだ。 「待たせたな。ほら」  鐘崎の逞しい手にはおおよそ似合わない盆に乗せられたティーカップやケーキ――。だが、いつも訪れる度にこうして自ら茶を淹れてくれるその気持ちが嬉しくてならなかった。 「うわ! 美味そ!」  パウンドケーキに生クリームがたっぷりと添えられている。 「好きなだけ食え」 「ん――。あのさ……遼、いつもその……サンキュな!」 「なんだ、急に」  ケーキの皿を差し出しながら笑う。 「や、おめえ直々に茶ー淹れてもらうなんてさ、俺って幸せモンだなって」  えへへと鼻を掻きながら照れ臭そうに笑う。そんな紫月の頬を更に染めるようなことを、目の前の男はサラリと言ってのけた。 「そりゃお前――愛だろ?」 「あー……いって……お()……」  思わず鯉のように口をパクパクとさせてしまう。 「いいから食え。忠さんの自信作だそうだぞ」  忠さんというのはここ鐘崎組の厨房を預かってくれている料理人だ。二人が生まれる以前からずっと勤めてくれていて、今ではその忠さんの息子も一緒に腕を奮ってくれている。親父さんの中吉(ちゅうきち)は生粋の板さんだが、息子の忠吾(ちゅうご)は料理の他にも菓子作りが得意のようで、甘い物好きの紫月の為にといつもこうしてオリジナルスイーツを作っておいてくれるのだ。 「こっちもそろそろいい頃合いだな――」  紅茶を注いでくれながら笑うその笑顔が――仕草がとびきり穏やかで優しげで、堪らない思いにさせられた。今にも胸がキュウっと摘まれてしまいそうなくらいだ。 「紫月、こっち向け」  大口を開けてケーキにかぶり付いたところでスマートフォンを向けられて、紫月は思わず喉に詰まらせそうになった。  カシャっとシャッターを切りながら目の前の男はえらく嬉しそうだ。 「ンだよ、不意打ちとかよー……」 「すまん。だがこういう何気ない顔がまたいいモンだ」 「や、良かぁねえべ! ただ単に間抜けなヘン顔じゃねーか」 「ヘン顔がいいんだ。俺の大事なコレクションにする」 「コレクションって……おめえ、将来何かの時に俺の弱みにでもするつもりだな?」  二人はまだ想いを告げ合ってはいない為、そんな切り返しでごまかすわけなのだが、心の中では互いへの想いがあふれているのを肌で感じる。こんな瞬間もまた内心幸せに思える二人だった。  きっと今撮った写真も、例の紫のアルバムに収められるのだろう。 (そんでもって、またそれ見ながらシコるってね……)  想像しただけでくすぐったいような思いがあふれ出る。 「遼――」  トントンと肩を叩いては、 「お返しだ!」  カシャっと不意打ちでシャッターを切る。 「おい……てめ――!」 「いーべ? こいつぁ俺んコレクションにすんの!」  画面の中の彼は不意打ちに驚いたような表情ながら、作っていない感じが素朴だ。だが、元が男前だけにそんなちょっと間の抜けたような表情も色気があって、眺めているとドキドキとしてしまいそうだ。 「へへ! 最高ー!」 (俺もコレで抜けそうだ……!)  まるで宝物のようにスマートフォンごと抱き締めてはソファの上で転げる無邪気な様を見つめる鐘崎の瞳もまた、そこはかとなく愛しげに細められる――そんな幸せな午後がゆっくりと流れていく。  このあたたかで愛情にあふれる想いを告げ合うのは、この日から数年も先のことだった。 秘密の刻 - FIN -
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