第365話 呑吐(どんと)

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第365話 呑吐(どんと)

 泥土に沈む中、篤樹は左手で成者の剣を掴み、右手は胸に在る「渡橋の証し」を服の上から握り締めていた。  ヤバイ……苦しい……身体が……痛い……  小学低学年の頃、学校のプールで溺れた記憶がよみがえる。溺れたと言っても、そんなに大した「事故」では無かったが、とにかく、水中でなぜかうっかり「息をしようとした」せいで水を飲み込み、慌てふためいた記憶だ。1回水を飲んでしまうと、もう1度息を止めて持ち直すことなんか出来ない。苦しくてパニックになった時、誰かの大きな力で水面に引き上げられた。  ゲボゲボと水を吐き、恐怖と不安、胸と喉の痛みで泣き叫んだ記憶―――助けてくれたのが、担任の先生だったことにさえ気付いていなかった。迎えに来てくれた親から言われ、何となく「ありがとうございました」とお礼を先生に言ったが、その時もまだ「溺れた」恐怖のほうが強く、助けてもらった感謝という気持ちは無かったように思う。  助けて……先生……  幼い日の記憶と、今の恐怖が混同して重なる。助けを求める篤樹の脳裏に浮かんだ「先生」は、小宮直子の姿だった。  辛うじて止めていた呼吸にも限界が来る。プールでは「知らずに」水中で呼吸をしようとしたせいで「サラサラの水」を飲み込んでしまったが、今は自分の状況を理解していた。ここは水中ではなく泥土だ。身体の自由がきかないので、暴れもがく事も出来ない。それに、こんな粘性の有る泥土を一口でも飲み込めば……あっという間に死を迎えるだろう。  極限までは我慢した……しかし、もう限界だ……。篤樹は死を覚悟する。最後にまぶたの裏に浮かんだのは―――エシャーの笑顔だった。 ―・―・―・―・―・―・―・― 「なんだ……ありゃ……」  ガザルは目の前で突然起きた出来事に、驚くというよりは呆れた声を洩らす。光球体に包まれたエシャーが沈んで行った泥土の表面を、ピュートもしばらく目を見開いて眺めていた。しかし、ガザルの声に反応し我に返る。 「湖神とエシャーがカガワを助けに行った……」 「チッ!……まあ、間に合ったかどうか、分かん無ぇけどな?」  面白くも無さげに、ガザルは吐き捨てるように言い放つ。 「ただの泥土じゃ無ぇ……『完全な支配者』そのものの腹ん中だ。とっくに消化されちまってるかもなぁ? 糞になって出て来るのを待っとくかぁ?」  ガザルの挑発的な言葉に、ピュートは興味も示さず語りかける。 「さっきの話の続きだが……」 「あァ? んだって?」  面倒臭そうにガザルも応じる。相互干渉体として互いに直接・間接の攻撃が出来ない以上、ガザルにとってピュートは「関心の対象外」となっていた。  本当なら瀕死のタフカにさっさと止めを刺し、もっと多くの者を蹂躙し虐殺するためにこの場を立ち去りたいという欲求が強くある。しかし、泥土の「完全な支配者」と湖神が、篤樹を巡りどのような展開を見せるのかも気になっていた。動き出せない暇つぶしとは言え、ピュートの話に付き合っているだけでは面白くも何ともない。 「俺の中に『生きているアンタ』が居る……」 「はぁ?」  ガザルは地面の様子をチラチラ確認しながら、ピュートの唐突な言葉に眉をひそめる。 「そりゃ、テメェは勝手に俺の細胞を使って合成されたキメラだからなぁ……なんだ? 俺に感謝でもしてぇのかよ?」  小馬鹿にする口調で、ガザルはピュートの話を茶化す。 「感謝? そうだな……今の俺が居るのはアンタという存在がいたからだ。おかげで『友だち』にも逢えた。そういう意味では『感謝』かも知れないな。だが、それはアンタにでは無い」 「チッ……こっちだってテメェの存在なんか知ったこっちゃねぇよ!」  ガザルは不快感をあらわに顔を歪める。ピュートは構わずに話を続けた。 「……湖神から話を聞いていた時……俺は、俺の中に居るアンタに『喰われそう』になった」  相手をするのも馬鹿らしくなったのか、ガザルはピュートから目を離し泥土の表面を注視する。 「俺もアンタの存在を認める気はサラサラ無い。俺は俺だからな……だが、アンタが人間やエルフ……世界を憎む気持ちが……俺の中に居るアンタからひしひしと……」 「うっせぇ! 黙れ、クソ虫!」  当てる気の無いガザルの法撃が、ピュートの足下に放たれる。 「ゴチャゴチャと……クソ (うぜ)ぇ蝿野郎が! テメェの中の俺様だと? 知るか! 勝手に盗んでった俺の細胞の一部分が何だってんだ?」  殺すに殺せないジレンマで、ガザルの目が赤く染まっている。片目は……小人の咆眼に成りかかっていた。だが、ピュートは感情の読めない冷めた視線でその「眼」を見つめる。 「アンタのその右目……小人族のシャンからもらったんだってな? 義弟のアンタが『両目』で立ち歩めるように……サーガの実に『喰われ』てしまわないためにって」 「あのクソ女……なんでもかんでもベラベラと……」  怒りに顔を歪めガザルはピュートを睨みつけた。ピュートはその視線を真っ直ぐに見つめ返す。 「ああ、そうだな! 色々……色々と有ったんだろうな!」  ガザルは面倒くさそうに怒鳴り出した。 「だがな、そんなもんは全部どうでも良いんだよ! もう、今の俺には関係の無い話だ! 何が有ったか、誰が居たかなんてどうでも良い! 今の俺が最高なんだよ! クソ虫どもをグチャグチャに引き裂いて、無様に泣き喚きながらひざまずく馬鹿共の頭を踏み潰すのが楽しくてしょうが無ぇんだ! 心の欲するもの全てを喰らってやる! 俺の食事を邪魔するんじゃねぇ!」  興奮と怒りで、ガザルの全身が血に染まる。抑えきれない感情が、表皮下の血管を裂き、汗のように血を滲み出させた。 「そうか……」  ガザルの言葉に、ピュートは静かにうなずく。 「アンタは、欲するままに全てを喰らって徘徊するサーガだったな……」 「……だったら何だ?」  当たり前の情報を納得気に語るピュートに、ガザルは不快感を隠さず問いかけた。 「気付いて無いのか? アンタはもう……この世に居ない」 「はぁ?」  ピュートは篤樹とエシャーが沈んだ泥土に、変化が起きていることを肌に感じつつ目線をガザルから離さず告げる。 「喰われてしまってんだよ、アンタ。とっくの昔に……サーガの腹の中にな」
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