スイッチ

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   ◇  爽やかな朝の空気を吸い込んで、新鮮な物で肺をいっぱいに満たす。新しい一日を、まだ失敗の無い日と言ったのは赤毛のアンだったろうか。小学生の頃の担任がよく口にしていたその言葉が、斉木(さいき)明日菜(あすな)は好きだった。  まだシミの無いまっさらな日。道端の花を愛で、すれ違うベビーカーの中を覗き見ながら学校までの短い旅路をうらうらと楽しんでいると、曲がり角の先で小学生の「きゃあ」だの「キモい」だのの声が上がった。嫌な予感がして咄嗟に心を靄で守る。正面だけ見据えて通り過ぎるつもりが、瞬間的に野次馬な好奇心に駆られて、ちらりと視線をそちらに流した。  子供たちの視線の先、車道に転がるそれは、以前、母方の祖母に見せられた狸の襟巻きに酷く似ていた。萎びた毛皮、力の抜け切った肢体、伸びた首。首輪の先にあるはずの球体は潰れて道路を汚し、車は不自然な動きでそれを避けて行く。慌てて目を逸らしたけれど、自分こそが汚された気分になった。誰かの死を前にして、悼むより先に身勝手な思いを抱く自分にげんなりしながら、「まっさらな一日は明日に期待しよう」と息を止めて足を早める。と、背後でまた、きゃあと子供の悲鳴が上がった。  何事かと慌てて振り返った明日菜の視界に飛び込んできたのは、翻るスカートを気にもせずガードレールを乗り越える脚と、見知った顔。話したことはないがいつも同じ教室にいる一人の女の子が、制服が汚れるのも厭わず、頭の潰れた血塗れの毛皮を車道から掬い上げ、両腕で抱えていた。靄がかかった灰色の世界で、その姿だけが純粋で輝いているように、明日菜には見えた。  校門をくぐり見知った顔を見つけて挨拶を交わすたびに、世界が色を取り戻していく。教室ではいつもの面子が机の周りに自然に集まり、会っていない十数時間を擦り合わせたり、お互いを褒めることに暇を費やしていた。女子校の甘ったるく華やかな猥雑さが、明日菜は好きだ。  ホームルームまでの時間を、自らもその無駄に身を浸して過ごしていると、教室の後ろの方で「きゃあ」と悲鳴が上がった。何事かと幾人かががそちらを振り返る中、明日菜もゆっくりと視線を向ける。予想の通り、皆の視線の先には、血と泥で汚れた制服のまま登校してきたクラスメイト、佐々木(りん)の姿があった。 「なにそれ!? 大丈夫? 怪我してるの?」  友達の少ないクラスメイトの危機に、委員長が駆け寄る。凛は「平気」と一言で返事を済ますと、無表情のまま、すたすたと自席へ向かい、運動着を取り出して着替え始めた。 「あれマジで怪我とかしてんじゃないの?」 「なにあれ、怖っ」 「佐々木さんって、何考えてるのかわかんないよね」  遠巻きにしている面々が、心配の色を浮かべつつ胡乱げに眺め、陰口を叩き始める。 「車に轢かれた猫を道路脇に除けてあげたんだよ」  声を上げたのは明日菜だった。教室内が改めてざわめく。 「じゃ、あれ、猫の血……?」 「うわぁ、キモ……」  同情的な感想は更に鳴りを潜め、気味悪がる声ばかりがひそひそと囁かれ合う。明日菜はきょろきょろと周囲を見回し、そんな雰囲気は不本意とばかりに再び声を上げた。 「首輪してたし、飼い猫だったんだよ。道路に放置されてるの飼い主さんが見たら辛すぎるじゃん」  その一言に、動物を飼ったことがあるのであろう数人が、ぐっと息を詰める。 「明日菜がそう言うなら……」 「ね、ブラウス、早く汚れ落とさないとシミになるんじゃない?」 「あ、私、洗ってきてあげる。石鹸で落ちるかな? 佐々木さんは着替えを続けて」  誰かの声で、委員長が弾かれたように動き出す。こうなると呆気に取られるのは凛だ。 「ありがとう……」  素直に小さく礼を言い、教室を出て行く委員長を見送る。なんとなく凛が良いことをした雰囲気になって騒ぎが収束に向かうのを確認して、明日菜は友人たちとの会話に戻った。
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