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「ただいま」
明日菜が玄関のドアを開けた瞬間、凛は異様な匂いに息が詰まった。居間を通り過ぎる時に「あれがお父さんとお母さん」と明日菜に言われて見ると、身体が傾いだまま動かない人影がソファに二つ。
それが何であるか既に予想のついている凛は、挨拶などという馬鹿らしいこともせず歩を進める。踏んだ小さな物が足の下でぷちっと潰れた。嫌な予感と足の裏の気持ち悪さから、飛び上がりそうになる。薄暗い床に目を凝らすと、黒ずんだフローリングの上には、所々、ふやけた米粒のような、それよりは幾分か大きめの白い物が落ちていた。顔を近付けて見れば、それは一粒一粒が蠢いている。今度こそ悲鳴を我慢できない。凛が踏んだのは、蛆の蛹だった。
「こっち。二階に私とお姉ちゃんの部屋があるの」
床の上に散らばる白と赤褐色を気にもせず、明日菜が場違いに明るい声で呼ぶ。甘いような酸っぱいような本能が忌避する臭気に足は竦むが、引き返すこともできない。凛は鼻で息するのを諦め、はっはっと口で細かく呼吸をして、呼ばれた方へ向かう。階段を一段上るたび、臭いは強くなる。その元が何かもうわかっている凛は、吐き気と共に涙が込み上げた。
「ここが私の部屋。片付けてないからちょっと汚いけど」
ドアの先には、腐った猫の餌皿と、糞尿で満杯になったトイレ。六匹の猫は明日菜の部屋にだけ押し込められ、中にはお腹の大きな雌猫や、既にお腹の萎んだ雌猫もいた。
「あれ? 学校に行ってる間に産んじゃったのか。ここかな……」
明日菜がベッドに向かい布団を剥がす。
「あーあ、布団、ビショビショになっちゃった」
目を刺すアンモニアの匂いと、嗅いだことのない生々しく湿った濃い生き物の匂いに、我慢しきれず嘔吐く。そんな凛の様子を気に留めるでもなく、明日菜は部屋の隅に積んであった菓子の箱を手に取りベッドに近付くと、布団の上で藻掻く産まれたての子猫をじっと見下ろした後、箱を開けると、何の感傷もなく事務的に子猫たちを入れていく。
「何してるの?」
「取ってる。ほら聞いて。箱の内側で爪がかりかり鳴ってるでしょ。これをビニール袋に入れて、音がしなくなるまでクローゼットにしまっておくの。音が止んだら他の可燃ゴミと一緒に捨てるだけ」
「なんで……」
「小学生の頃からね、私の仕事なんだ。猫の世話と始末」
始末。その言葉に、今度こそ吐き気が止められなかった。
「吐きそう? いいよ、この布団、もう使えないからそこに吐いちゃって」
「なんで?」
「なんで? さあ、知らない。いつの間にかそういうことになってた」
「なんで……」
嗚咽を上げ始めた凛に、明日菜は困ったような同情的な笑顔を向ける。
「ありがとう。凛が泣いてくれたから、やっぱりこれは異常なんだってわかった。家の人は皆、当たり前みたいに言うから、そうなのかな、苦しい私がオカシイのかなって思ってた」
そうか、やっぱりオカシイのか、と呟きながら、明日菜が部屋を出て行く。
「お姉ちゃん聞いてる? やっぱり、うち、オカシイらしいよ」
張り上げられた声を追って凛が隣室に飛び込むと、床の上に丸められた毛布から、腕が伸びていた。座り込んだ明日菜が、毛布に包まれた身体を揺すりながら大声で呼びかける。
「ねえ、お姉ちゃん。ねえ、ねえ!」
「明日菜、やめて…… 死んでる」
凛の言葉に明日菜が動きを止める。近付いて見れば、首に何度も斬りつけたような傷がぱくりと開いていた。
「なんだ、結局死ぬんだ。あー…… 死んじゃったかぁ。残念、うちのは死んじゃった」
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