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長い船旅も、いよいよ明日には終わりを迎える。
デッキで感じる海風も、日中は、ほのかにあたたかく感じるようになった。
春が来る。
もうすぐそこに。
俺と、あいつの、幸せな春が来る。はずだった。
少なくとも、結婚式の日取りを決めた時には、俺はそう思っていた。
ヴィルがベッドの上で寝返りを打つと、部屋を整えて隣の部屋へ移ろうとしているクレアの背が目に入った。
船の揺れに合わせてなのか、従者の長い尻尾が左右に揺れているのを見ながら、ヴィルは尋ねた。
「なぁ、クレア。アンリは……」
じろりと睨まれて「誰もいないんだからいいじゃないか」と拗ねたように反論しつつも、ヴィルは言い直した。
どこで誰が聞いているのか分からない。
独り言ですら、アリィで統一した方が良いことは、理解していた。
「アリィは、俺の事嫌いになったりしてないよな……?」
クレアはチラと耳の垂れた情けない顔の主人を一瞥してから、作業に戻りつつ背で答える。
「そもそも、最初は好かれていらしたんですか?」
「そりゃそうだろ。俺のこと、命懸けで守ろうとしたんだぞ!?」
「……好意を告げられたことがおありですか?」
「い、いや……、それは……ないが……、でも、俺と、幸せになりたいと……」
ごにょごにょと自信を失ってゆく白い獅子の尻尾が、しょんぼりとベッドから垂れ下がり床につく。
それを、白い毛が汚れては困るとベッドの上に引き上げさせながら、クレアは苦笑した。
こんなに立派に大きく育った体を、小さく縮めてしょげている様が可笑しくて、少しからかい過ぎてしまったようだ。
この主人は、自信満々にさせてしまうとすぐ早まった行動に出てしまうので、ちょこちょこ頭を冷やしてやらねばならない手のかかる人だった。
けれど、決して馬鹿ではない。
反省もしているようだし、前回婚約破棄をなんとか回避できたように、今回もきっと上手くいくものとクレアは思ってはいた。
けれど、それをそのまま伝えてしまうと、主人はきっと調子に乗るだろう。
クレアは苦笑を噛み潰すと、努めて平静に答えた。
「大丈夫ですよ。貴方様が、これ以上、行動を間違わない限り」
グッと詰まるような音が、ヴィルの喉から漏れる。
けれどヴィルは真っ直ぐ前を、船の行手を見つめていた。
主人の真剣な横顔にクレアは満足そうに一つ頷くと、そろそろ寝るようにと言い添えて、隣の部屋へ移った。
船で一番豪華な寝室でひとりきりになったヴィルは、獅族用に用意されていた大きな枕にうつ伏せて思う。
そう、こないだのあれは、完全に、俺の間違いだった。
良いと言われるまで、アリィの同意を得るまでは、決して触れるべきではなかった。
キスを許されるようになって、結婚が正式に決まって、俺は浮かれていた。
それなのに、アリィは辛そうな顔ばかりで、もっと……。
もっと、笑う顔が、見たかったのに。
俺が、泣かせてしまった。
……怖がらせてしまった。
小さく震える細い肩が、伏せた瞳から止めどなく溢れる涙が、今でも鮮明によみがえる。
ギリっと噛み締めた歯が鳴る。
ああ、こんな音を聞かせてしまったら、アリィはまた俺を怯えた目で見るのだろうか。
あの、夏の青空によく映えた、薄桃色の笑顔。
あんな無邪気で真っ直ぐな笑顔を、まだ俺は前の滞在で一度しか見ていない。
結婚式で、アリィは俺に向けて微笑んでくれるのだろうか。
作り笑いではない、本当の笑顔を、向けてもらえるのだろうか。
どうかもう一度、俺にあの美しい薄桃色の笑みを……。
俺は切に祈りながら、目を閉じた。
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