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式の日は、遥か遠くまで見渡せるほどの快晴だった。
雲ひとつない春の空は、どこまでも透き通る、柔らかい色をしていた。
父の涙を見たのは、姉が亡くなった時以来だった。
私は父より早く死ぬつもりはなかったので、もう見る事はないはずだった。
それをまさか、こんな風に泣かせてしまうとは。
私は父の腕に手を添えながら、父の温かな微笑みと、その涙が重なる顔をどこか不思議な気持ちで見上げる。
まだ幼い頃に投薬により成長を緩められた私は、父の背を越す事は無かった。
母の死にも姉の死にも、そして自分が姉となった日にも思ったことだったが、人生というのは本当に思ってもいないことの連続なのだと、私は改めて思った。
良い意味で思ったのは、これが初めてだったけれど。
「アリィ」
声をかけられて、振り返る。
そこには、真っ白なタキシードに身を包んだ、白く美しい獅子が立っていた。
胸元には、私の髪と同じ薄桃色の花が咲いている。
「シャヴィール様……」
息を呑むほどに美しい、この獅子が、まさか私の夫となる日が来るなんて。
私は父と礼を交わすと、彼の手を取る。
自然と笑みが溢れていた。
ヴィルの白い瞳に、幸せそうに笑う自分の姿が映っていて、なんだか、夢のようだと思った。
ヴィルにエスコートされたまま、大勢の列席者が入った会場を出て、民の待つ広場に面したテラスへと顔を出すと、地が揺れるほどの歓声に迎えられた。
あまりの音に、耳が痛い。
気の利く従者に、前もって耳栓を入れられていて、尚これなのだから、広場の民達の耳は大丈夫なのだろうかと、思わず心配になった。
私と彼の挨拶が始まると、広場は驚くほど静まり返った。
国の皆が神妙に私達の……異種族である彼の話を聞いてくれる様が、私には、なんだかくすぐったかった。
春祭りの開催挨拶を兼ねた私の挨拶が終わると、広場と、各地の教会の鐘が一斉に鳴った。
鐘の音に合わせて、国中から一斉に風船が飛び立つ。
春の空をいっぱいに埋め尽くす、白と薄桃色の風船は、城からの働きかけではなく、民達が自主的に企画してくれたものなのだと聞いていた。
「すごいな、これは……」
ヴィルの呟きに、私も頷く。
広い空のどこを見ても、その全ての方向に風船が浮かんでいた。
よく見れば、手作りのようなものも子供が作ったようなものも、たくさん混ざっている。
「……お前は、愛されてるな……」
その言葉が酷く寂しげに聞こえて、私は彼を見上げた。
彼の瞳は、遥か遠くを見つめていた。
***
「本当に、いいのか……?」
尋ねられて、頷く。
私は彼の部屋のソファの上にいた。
閉じられたカーテンからは、細く月の光が入っている。
灯りは落とされ、室内は薄暗い。
私が恥ずかしがるので、それならと、彼が暗くしてくれた。
「もし途中で怖くなったら、いつでも言ってくれ。俺に」
言われて、ちょっとだけ苦笑する。
もうあの従者に助けを求めるのだけはやめてくれという事なのだろう。
あの時は本当に、悪いことをしてしまったと、私も反省している。
「分かりました」
「敬語は、もういらないだろ……?」
「ごめん、つい……。癖みたいなものだから……」
困った顔で苦笑してみせると、彼は大きな舌でべろりと私の頬を舐めた。
まるで、櫛で毛を梳かされたような感触に私は目を丸くした。
「ん? 舐められるのは、初めてか?」
「と……当然ですっ」
敬語に戻ってしまった私の手を取ると、彼は笑いながら口元に引き寄せる。
そのままペロペロと舐められる度に、ザリザリとした櫛のような舌が、私の毛並みを整えた。
「アリィ……愛してる」
言われて、びくりと肩を揺らしてしまう。
動揺する私がじわりと距離を取ろうとするのを、彼は許さなかった。
掴まれていた手をぐいと引き寄せられて、私の体は、もふんと彼の胸元に着地する。
彼は既に、その上半身に何も身につけておらず、いつものたてがみと胸元から溢れる毛だけでなく、全てで私を包んだ。
「なあ、教えてくれ。お前は俺を、どう思ってる?」
尋ねる声が僅かに震えて、私は気付いた。
彼には繰り返し愛を囁かれながら、私はそれを返せていなかった事に。
「私……、私も、ヴィルが好き……。ずっと、前から……」
「……前から?」
「ずっと前から、ヴィルが大好きだったよ……」
「……そう。……なのか?」
驚いたように白い目が開く。
薄暗い室内では、いつも小さな黒い瞳孔が大きく開いていて、その分どこかヴィルはいつもよりも幼い印象になっていた。
「うん、小さい頃、一緒に遊んでくれて……本当に嬉しかった……」
「……っ、俺もっ! 俺も、あの頃からずっと、お前が好きだ!!」
力の篭った大きな言葉に、思わず耳を引っ込める。
「あ、悪い……」
気付いたヴィルがバツの悪そうな顔をして謝った。
「……俺は、あの頃より、もっと……。もっと、お前に触れたい」
ヴィルが熱っぽい視線を向けてくる。
「うん、いいよ。…………でも」
「でも?」
優しく促されて、私は仕方なく白状する。
「こんな……、こんなに足りない私の体を見たら、ヴィルをがっかりさせてしま……っ」
くいと顎を引かれて、唇を塞がれる。
それは、いつもの優しく触れるだけのキスでは無かった。
私の口の端から、じわりと彼の舌が入り込む。
やわらかく、弾力のある舌先でそっと歯のない部分を撫でられて、背筋がぞくりと熱くなる。
「……っ」
彼の舌はその先端以上に入ろうとはしなかった。
先程の感触を思い出して、納得する。彼の舌は、私の舌とは作りが違う。
それなら、と私は腕を精一杯伸ばして、彼の頭を抱き寄せた。
彼が、私を傷付けまいと慌てて舌を引っ込める。
それを追うようにして、私は彼の力強く生え揃った歯に唇を寄せた。
種族的にあまり舌は長くないが、彼の歯列をなぞるように、懸命にそれを舐める。
彼は、くすぐったいのか、それとも口を開いて私を傷付けまいと思っているのか、歯を食いしばったまま耐えていた。
その息が、次第に荒くなってくる。
チラと覗き見ると、ヴィルの白い毛並みに覆われた頬がほんのり赤くなっている。
私はなんだか嬉しくなって、夢中で彼の歯茎を舐め上げる。
と、ぐいと両肩を押さえられて、引き離されてしまった。
「も、いい……っ」
彼が、顔を真っ赤にして、私から視線を逸らす。
「我慢、できなくなる、から……っ」
彼は、三度大きく深呼吸をして、私を見て……それからぶんぶんと首を振って、また深呼吸を始めた。
「いいよ……?」
私の言葉に、彼は丸い瞳で私を見る。
「こんな私の体で良ければ、ヴィルの好きにしてほしい……」
「っ! お前の体なら、綺麗に決まってんだろ!!」
ヴィルが苛立ちからか発情からか、声を荒げた。
びくり。と反射的に耳が引っ込む。
「お前は、その魂が美しいんだよ……」
ヴィルは、反省したのか、声のトーンを落として続ける。
「魂……?」
「ああ。だから、その入れ物なんか、なんだっていい。お前の魂が入ってるなら、それは美しいんだよ」
キッパリと言い切られて、私は唖然とした。
「そ、そんなこと……、初めて、言われた……」
薄桃色の髪や薄桃色の毛並みを褒められることは茶飯事だったが、まさか魂とは……。
『魂』という言葉を胸の内で繰り返す。
それは確かに、名を失い、体を変えられた私が、今も変わらず持っていたものだった。
「ヴィルが欲しいのは……。ヴィルが好きになってくれたのは、私の魂なの?」
思わず尋ねていた。
白い獅子は、大きく頷いて答えた。
「ああ。お前の命が、お前の存在そのものが、俺にとっては大切なんだ」
「……っ。嬉しい……っっ」
私は、今度は自分から、彼の胸に飛び込んだ。
涙はこぼれてしまったけれど、これは嬉しい涙だから、仕方がない。
彼の指が、私の背をゆっくり撫でてくれている。
彼が、愛してくれていたのは、彼が大切にしてくれていたのは、初めからずっと、私だった。
間違いなく、私自身を、彼はずっと見ていてくれた。
知らずに壁を作っていたのは、私の方だったのかも知れない。
頬に触れる彼の肌は、いつもよりずっと熱かった。
耳をすませば、必死で抑えようとしている彼の息も、その端々で荒く揺れていた。
「ヴィルの心臓、ドキドキしてるね」
「……っ、悪かったな!」
別に悪いなんて言ってないのに。けれど、そんな反応も、なんだか昔のようで懐かしかった。
ヴィルのふかふかした胸の毛の下、素肌を手のひらでゆっくり撫でると、小さな突起に当たる。
途端、ヴィルがびくりと肩を揺らした。
それが何なのか理解して、私はそれに唇を寄せた。
「ちょ、まっ……っ」
焦る彼の声がなんだか新鮮で、私はそれをぺろぺろと舐める。
私の小さくて柔らかい舌でも、彼のそれは体に対して小さかったので、十分に包み込むことができた。
「ぅ、く……っ」
ぎりっと、彼が歯を食いしばった音が聞こえる。
グルルと低く唸り声がして、見上げると、彼が熱に浮かされたような目をしながらも、鼻先に皺を寄せそれに耐えようとしていた。
ヴィルが、がばと立ち上がる。
ふわりと足が宙に浮いて、私は彼に抱き抱えられていると知った。
そのまま彼は私ごとベッドに飛び込む。
彼のために用意されたベッドは、それでも少しも軋む事なく、二人の体重を柔らかく受け止めた。
背をベッドに受け止められて、私の上には、ヴィルの大きな顔があった。
いつの間にか、私の両腕は、それぞれヴィルの手に掴まれている。
「もう……止まらないからな……?」
いいんだな? と彼の視線が、最後の優しさで問う。
私は、その優しさを、全て受け止めて良いのだと分かって、震えた。
そして、それらを全て、余す事なく受け止めたいと願った。
「うん、いいよ、来て……」
溢れる喜びに、自然と顔が綻んでしまう。
私の笑顔を見た彼が、小さく「くそ、可愛いな……」と口内で呟いたのを、私の耳は確かに捕らえた。
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