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立ち上がりかけるノクスの腕を、ぐいと引いたのはクレアだった。
『離してください』
『まあ、もうちょい待て』
『待てません』
手を離せば今にも駆け出しそうな黒兎の、焦りを浮かべた生真面目そうな横顔を見て、獅子はため息を吐いた。
『過保護な上に短気なんて最悪だな』
『……貴方には関係――っっ』
不意に、勃ち上がったままのそれを撫でられて、ノクスは肩を揺らした。
『っ、何……を……』
『こんなにガチガチにしたままで、何をどう慰めようってんだ』
獅子は、動揺する黒兎の下がった眼鏡の隙間から、その赤みがかった黒目を覗き込む。
ギラリとした肉食らしい金色の瞳は、酷く雄らしい色を浮かべていた。
ノクスは知っていた。
目の前の獅子が、たてがみを切り落とした雄である事を。
獅子の国は縦社会だ。たてがみの生えた者は群れに一人しか要らない。
なので、部下となる雄がたてがみを落としている事自体はそう珍しい事ではなかったのだが、あの国の外交にとって最重要人物の警護として、念には念をと言う事なのか、久しぶりに会った彼は女性名を名乗っていた。
『ま。お前の姫さんの匂いが、まだずっと漂ってるからな。姫さん大好きなお前が、つられて発情すんのはしゃーねぇ』
『私は……、臣下としてお慕いしているだけです。下世話な言い方は……っ』
ぐいとそれを掴まれて、黒兎は息を詰めた。
『だから、手伝ってやるってさっきも言ったろ?』
『結構です、と先程もお答えしましたが……』
苦しげに眉を寄せ、小さく震えながらも言葉だけは気丈に返す黒兎に、クレアは嘆息した。
『可愛くねぇ後輩だな。先輩の言うことは、素直に聞けよ』
言いながら、獅子は片手で黒兎のタイを掴むと、力尽くで黒兎を床の上に組み敷いた。
『っ、クレイ……っ』
『その名はここでは口に出すなよ?』
酷く冷酷な瞳で告げられて、黒兎は頷いた。
その深い金色の瞳に、こうして射抜かれてしまうと、ノクスはもうどうしようもなかった。
学生の頃……と言っても、どこにでもあるような学校ではなかったが。ノクスにとって、彼は同じ養成所の二つ上の先輩だった。
所内で会う事はそうなかったが、寄宿舎は二人部屋で、その相部屋相手が、他でもない彼だった。
『お前の弱いとこくらい分かってんだよ。すぐ楽にしてやるから、じっとしてろ』
不敵に笑った獅子の口端から、べろりと長い舌が舌なめずりをする。
種族的な体格差もあれば、技術的な差もある。
音を立てずに、主人達に気付かれる事なく、ここからの形勢逆転は不可能だと黒兎は悟る。
捕食者に捕われた兎は、観念したように、その黒い睫毛をそっと伏せた。
***
ごそりとヴィルが動く気配に、アリィは慌てて彼へ背を向けた。
彼の顔が見たいと思っていた。
彼にこちらを向いて欲しいと思っていた。
けれど、今の私の、涙に濡れた顔を見せるわけにはいかなかった。
「アリィ……」
彼の、掠れたような声が私を呼ぶ。
「お前を否定したつもりじゃない。……お前の気持ちは嬉しかった。ただ……」
そこまでで、彼の言葉は途切れた。
私は、まだ止まらない涙をどうすることもできずに、両手で顔を覆っていた。
ヴィルに反省するべきところなんてない。
そう伝えたいのに……。
そっと、彼の柔らかな肉球が私の震える両肩に触れる。
そのままぐいと私は彼の胸元に引き寄せられた。
「なあ……頼む。泣かないでくれ……」
耳元で懇願する彼の声の方が、私よりもずっと、泣いているようだった。
その時、部屋の隅で物音がした。
私の耳が片方、その方向へと持ち上がる。
ノクス達も、まだ起きているのだろうか。
持ち上がった私の耳を、ヴィルがそっと撫でた。
「アリィ、一つ、聞いてもいいか?」
静かに囁かれて、私の両耳は揃ってヴィルの方へ向いた。
それが少し嬉しかったのか、彼はほんの少し苦笑して続ける。
「答えたくなかったら、答えないでいい」
一体なんだろう。と思いながら、私は彼の次の言葉を待つ。
「お前は、俺以外の奴と…………したことが、あったのか?」
「え??」
私は、思わず聞き返してしまった。
泣いていたことすら忘れて、彼の顔を見上げる。
「そんなこと、あるわけ――……」
そこまで言ってから、じゃあヴィルは? と気付く。
「……ヴィルは、あるの? 他の人と、したことが……」
「そんな物はないっ!! 俺はずっと、お前一筋だったんだぞ!?」
ガウッと叫ぶように言われて、私は目を丸くした。
「……そ、……そう、なんだ……」
彼の気持ちが嬉しくて、有り難くて、自分が情けなくて、苦笑しながら涙を零した。
「……もう泣き止んでくれよ……」
彼が、心底困ったような顔で、私の涙を舐める。
「ふふふ」
私はなんだか可笑しくなって、笑ってしまった。
ヴィルは一瞬驚いたような顔をして、それからまた苦笑するような顔で私の涙を舐める。
「俺は、兎族の体に、俺の物は入らないと聞いてたんだ」
ヴィルが、アリィの涙で乱れた毛並みを整えるように舐めながら、
ぽつりぽつりと話す。
「それどころか、アリィの体格では、半分も入らないだろう。と」
ヴィルの丁寧な毛繕いには愛が込められている。
私は身も心も幸福感に包まれながらそれを聞いていた。
「初夜なんて、それこそ、先だけでも入ったら、成功だなんて、言われてた。から……」
「から……?」
途切れてしまったヴィルの言葉を私は促した。
低くて柔らかい彼の声は耳に心地よい。
もっと、彼の声が聞きたかった。
彼の心を、彼の本当の気持ちを、もっと知りたいと願った。
「お前の体が、あんなに……俺を受け入れてくれて、俺は……その……驚いたと、言うか……」
言いづらそうな彼の言葉。
ヴィルは、私を少なからず疑ってしまったことが、酷く心苦しいようだった。
「ごめん。ヴィルを不安にさせてしまうくらいなら、もっと早く言っておけばよかったね」
「……何、を……?」
彼の声に、ほんの少しの警戒が滲む。
「私も、言われたんだ。ヴィルと同じように。だから、式までに、ずっと、その…………」
恥ずかしさに、思わず言葉が途切れる。
ヴィルが、私の顔を覗き込んだ。
その瞳に、幾らかの不安が顔を覗かせている。
「だから、その……ヴィルのを、受け入れられるように、ね……、その……練習して、たんだ……」
顔が赤くなるのを感じつつも、私はなんとかそれを伝える。
「……誰と?」
ヴィルが低い声とともに、グルルと喉の奥を鳴らした。
「え? あ、違っ、誰とかじゃないよっ。だって、ヴィルのは兎族のものとは比べものにならないくらい、大きいでしょ??」
慌ててぶんぶんと手と首を振ると、ヴィルの逆立ちかけた毛がじわりと戻る。
つまり、相手は張り型のような物だったのか。と理解して、ヴィルは胸を撫で下ろす。
それを突っ込んだのが誰だったのかをヴィルが気にし始めるのは、もっとずっと後のことだった。
なぜなら、次のアリィの言葉で、ヴィルは思考を停止させられたから。
「だから、私、ヴィルのを全部入れられると思ってたんだ。だって、冬の間ずっと、毎日練習してたんだから」
アリィが自覚なく、ものすごく可愛いことを言っている。とヴィルは思う。
「でも、練習してたのより、ヴィルの方が大きかったんだ……」
桃色の兎は、しょんぼりと耳を垂らす。
「あとちょっとが入らなくて……私、悔しくて……」
俯きかけた兎は、けれどぴょこんと顔を上げ、ヴィルを見つめて真剣な眼差しで言った。
「でも、もうちょっと練習したら、きっと全部入ると思うよっ」
ヴィルは思わずアリィを抱き締めていた。
その長くて敏感な耳へ、唇を寄せて囁く。
「もう『練習』はしなくていい、これからは毎晩、俺と本番だな」
「うんっ」
小さな兎は、嬉しそうに頷いた。
すっかり涙の乾いた薄桃色の兎は、白い獅子のふかふかの毛の中で、幸せそうに笑っていた。
その笑顔に、ヴィルも満ち足りた気持ちになる。
「ヴィル……、私、時々間違って、こんな風に、貴方のこと傷付けてしまう事もあると思うんだ……」
アリィが少年の頃と変わらない声で呟く。
「私、ヴィルの心を大切にしたいと思ってるよ。うまく、できるか分からないんだけど、貴方と幸せになりたいと、思ってる」
「ああ」
ヴィルは目を細める。
ヴィルには、その気持ちだけで十分だった。
「……こんな、情けない私だけど、これからも……隣にいてくれる?」
上目遣いにおずおずと見上げられて、ヴィルは堪え切れず破顔する。
「もちろんだとも!」
ヴィルは、つい、抱き上げてしまった小柄なその体を、頭上でくるくると回してみる。
初めは慌てたような顔をしたアリィが、あの頃にように無邪気に笑う。
それが堪らなく可愛らしくて、ヴィルはもう一度その小さな兎を胸の奥へと抱き込んだ。
「わぷっ」
小さな悲鳴までもが、愛しくて仕方がない。
思わず力の入ってしまった腕の中で「ヴィル、苦し……」と声が聞こえて、ヴィルは慌ててその腕を解いた。
「すまない……」
「ふふ、いいよ」
笑って、アリィがヴィルの鼻先へ口付ける。
そのまま、ペロペロと顔中を舐め回されて、ヴィルもくすぐったさと喜びに笑みを溢した。
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