遠い夏の思い出

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「遠路遥々、ようこそおいでくださいました」 長いドレスの裾を上げて、私は慣れた仕草で礼をした。 顔を上げると、そこには見違えるほどに逞しく、美しく成長した白い獅子が立っていた。 以前はまだ生えかけだったたてがみも、今では顔の周囲をぐるりと豪奢に囲っていて、神々しいほどの威厳を感じる。 なのに、その合間から丸っこい耳がのぞいているのがどこか愛らしい。 白い瞳は、あの頃と変わらず私を真っ直ぐに見つめて……いや、彼が見ているのは私ではなく、姉なのだろう。 心苦しさに、思わずドレスの裾を握り締めそうになる。 彼は、そんな私の手を取ると、優しく口付けた。 驚くほどに柔らかな感触。 同族からのそれとは違って、もっと厚みのあるふっくらとした唇。 私は、挨拶として何らおかしくないその仕草に、なぜかひどく動揺してしまう。 彼が何やら挨拶や感謝の言葉を並べているのを、私は何が何だか全く頭に入らないままに聞き流してしまった。 彼の臣下らしき人と、うちの大臣が話している。 ようやく話が頭に入りだしてきた頃、彼はもう一度私の手を取って、人懐こく笑った。 「行きましょう」 「……え……?」 ぐいと手を引かれて、何だかわからないままに、彼について歩き出す。 一歩遅れて、彼と私の傍付きが付き従う。 彼が風を切って歩くと、白色の美しい毛並みがふわふわと揺れる。 兎の、雪のような白とは違う、温かみのある生成りのような白。 それは、あの日憧れた、気高く美しい色だった。 歩きながら、こちらを振り返らずに、彼が問う。 「弟さんは、亡くなられたと聞きましたが」 彼にとっては早足ではないのだろうが、体格も歩幅も服も違う私はついていくのがやっとだ。 「……お、弟は……七年前に……」 息の合間に何とか答えた私の声に、言葉は返って来ない。 何か、答えを間違えたのだろうか。 なんとなく、彼の纏う空気が尖ったような気がして、顔を見せないままの彼について行く事が、ほんの少し怖くなった。 不意に、彼が立ち止まる。 その背ばかりを見ていたので、危うく彼にぶつかりそうになりつつも、何とか立ち止まる。 連れて来られたのは、中庭だった。 そっと手を離されて、一瞬戸惑う。 彼は、中庭へと歩を進めながら、ゆっくり辺りを見回している。 「懐かしいな。ここで遊んだんだ」 彼は、あの頃毎日のように二人で登った木を見つけて、その幹を撫でながら言った。 思わず頷きたくなるのをぐっと堪える。 「こんなに小さな木だったんだな」 目を細めて、自身の二倍ほどしかない木を見上げる彼は、まるで、その枝にあの頃の二人の姿を見ているようだった。 私は、彼の纏う空気が和らいだことにホッとしながら、彼の側まで歩いた。 「弟の事、覚えていてくださったんですね」 それが何だかとても嬉しくて、思わず零した言葉。 彼は小さく肩を揺らすと、たてがみを逆立てて、こちらをギロリと睨みつけた。 「……っ!」 殺気にも近いその気配に、思わず身が竦む。 彼は、苦々しい表情で私から目を逸らした。 「……俺の名を、覚えてるか?」 低く掠れる様な声。それは、大人の声だった。 私がいつか手に入れるはずだった、今ではもう二度と手に入らない。大人の男の声。 「……も、もちろんです、シャヴィール様」 彼は、私の答えにカッと一瞬目を見開く。 次の瞬間、私の背は彼の手によって木の幹に縫い止められていた。 視界いっぱいに広がる、彼の大きな顔。 逃げ出そうにも、両側を彼の両腕が塞いでいる。 「な、何を……」 動揺する私の視界の端で、黒毛の従者が懐から手を引き抜こうとしている姿が見えた。 私は背筋を伸ばして、片手でそれを制する。 あの従者は、私がアンリだった頃からの傍仕えなのだが、昔から短気で困る。 私は、従者のおかげで正気に戻った頭で、恐怖を飲み込むと、彼を真っ直ぐに見た。 私はこの人を、私との思い出を大切に覚えていてくれたこの人を、無事に国へ帰さなければならない。 よく見れば、彼は余裕の無い怒ったような表情をしていたが、その瞳はどこか縋る様な色をしていた。 「なあ……前みたいに、呼んでくれよ……」 口の中だけで唱えられた、小さな呟き。 けれど私の兎の耳には、はっきりと聞こえた。 確かに、私は彼のことを当時『ヴィル』と愛称で呼んでいた。 だが姉は『シャヴィール様』と呼んでいたはずだ。 まさか……。 ……まさか、彼は私がアリエッタではないと、アンリだと気付いているのだろうか。 「そん……な……」 血の気が引いていく。 理由はわからないが、もし彼が私の真実を知っているとするならば、彼は……。 ……彼は、おそらく、無事に国へは戻れないだろう。 いや、もしこの事を知っているのが彼だけじゃないとしたら? 彼がここに来たのは、まさかこの国を……。 呼吸が苦しくなってくる。 景色が色を失う。 今まで、自分の全てを捨てて積み上げてきた物が崩れていくような、たった一つの支えが失われるような気がして、足元がぐにゃりと揺れた。 「アリエッタ様!」 従者の焦ったような声が、遠くに聞こえる。 「おい! しっかりしろ!」 崩折れた私を支えたのは、彼の太い腕だった。 遠のく意識の中で見上げると、白い瞳の中に、黒い小さな瞳孔。 私を見つめるその瞳は、本当に、心の底から私を心配しているようで、私は彼に敵意が無いことに安堵しながら意識を手放した。
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