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「お待たせいたしました」
白い手袋に包まれた手が、目の前のテーブルにそっとグラスを差し出す。
俺は、回想から現実へと引き戻されて、視線をグラスへ投げる。
そこには、俺の好みを熟知した従者が、氷をたっぷり入れた、いかにも頭の冷えそうな物を用意していた。
礼を告げて、グラスを手に取る。
途端に、酷く喉が渇いていたことに気付いた。
一気に空けて、大きく息をつくと、行儀が悪いと窘められる。
俺は、俺に平気で小言を言う従者を、チラと横目で見た。
婚約が決まってからというもの、前にも増して、欲しい物はなんでも用意してもらえるようになったが、城から出ることは許されなくなった。
危ないから。危険だから。そんな言葉で。
窓の外では、兄達が外を駆け回り、剣の稽古に励んでいた。
そんな生活が変わったのは、こいつが俺の側付きになってからだ。
『危ない? 自分で自分を守る術もないようでは、それこそ危ないでしょうね』
ズケズケとものを言うやつで、俺の両親……国王にすら物怖じせず、俺の教育係まで自ら買って出てくれた。
自国から婿として差し出すのに、最低限の教養もないなんて、同じ国民として恥ずかしいと言われた時は流石に唖然としたが、俺もアンリに再会するまでに少しは立派な男になっていたかったから、それからは毎日必死で勉強した。
学問も、体術も。
有事の際には、俺がアンリの姉やアンリを守れるようにと思って。
そんな頃だった。
兎の国から婚約破棄の申し出が届いたのは。
分からなかった。
神聖な薄桃色の隣に、神に選ばれた白を並べたら映えるだろうから。とか、そんなふざけた理由で。
それでも無視できないほどの金を積んで、俺を買ったような奴らが、どうして今更破棄なんて言うんだ。と。
俺は、アンリにまた会えるならと思って。
好きでもないやつの夫だって、別に嫌いなわけじゃないし、アンリの姉さんなら仲良くやれるかも知れないなんて。
そう思って、日々過ごしてきたのに……。
アンリが死んだと言う知らせは、俺の国には届かなかった。
きっと、知らせるまでもないと思われたんだろう。
婚約も、破棄されるものと思っていたに違いない。
それらを秘密裏に調べてきたのは、他の誰でもない、この従者だった。
年々強くなる婚約破棄への圧力に、ここまで耐え切れたのも、うまく裏で手を回してくれたこいつのおかげだった。
「クレア」
声をかけられて、従者がチラリと振り返る。
「ありがとうな」
俺の言葉にクレアは薄く微笑んで「大変なのは、これからでしょう?」と答えた。
……これから、なのか??
俺は、アンリと無事に結婚できるものと思ってすっかり安心していたのだが。
そうじゃ……ない、のか……?
眉間に皺を寄せる俺に、クレアは告げる。
「まずは愛称をお考えになりませんと」
……そうだった。
はぁぁぁ。と深くため息を吐くと、クレアが渋々と言う顔で助言してきた。
「貴方様にとって、アンリ様はどのような存在なのですか?」
「俺にとって……?」
俺にとってのアンリは、俺の存在を認めてくれた、最初の人だ。
俺の心を、いつも温めてくれた。
優しく、静かに話すあの声が好きだった。
再会して、あの頃とあまり変わらない声に驚いた。でも、嬉しかった。
俺は、もうすっかり声も低くなっ――……。
「……アンリの体は、今どうなっているんだ……」
元からほっそりしていたアンリが、姉と入れ替わるなんて簡単なことに思えていた。
けれど、声変わりもしていないと言うのは……。
「それは、ご自身でお尋ねください」
さらりと返されて、俺はこの先に待つ『大変』の内のひとつに気付いた。
「それで、答えは?」
促され、俺は慌てて頭を働かせる。
「ええと、俺にとってのアンリは、道を示す星のような、夜を照らす月の光のような、そんな存在だ」
「でしたら、『俺の星』だか『俺の月』だかで宜しいのでは?」
ぞんざいな言い方ではあったが、クレアの言いたいところは分かる。
分かるが、しかし……。
「俺は『アンリ』を殺したくないんだ」
「と、おっしゃいましても、貴方様がその名を連呼していては、あの方の苦労は水の泡というものです」
「うぐっ」
痛いところを突かれて黙った俺に、クレアは続ける。
「このままでは、アンリ様のみならず、アリエッタ様までを死に追いやることにもなりかねません。今後、二度と軽率にその名を口になさいませんよう。その頭の僅かな皺に深々と刻み込んでくださいね」
その通りではあるが、その言い方はどうなんだ。と視線で訴えるが、クレアは微塵も気にする様子がない。
「それでは、もう、アンリ様とアリエッタ様の名前から、共通の音を拾いつつ、アリエッタ様の愛称としてもおかしくない辺りで決めるしかありませんね」
言われて、俺は深く頷きながら、ソファにまた背を預けた。
「それしか、無いか……」
そして、自分の考えなしな発言をもう一度悔やむ。
「誰だよ……最高のを考えるとか大見栄切ったのは……」
俺の小さな呟きを聞き漏らす事なく、有能な従者は、無駄に正確に答えた。
「貴方様です」
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