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真っ直ぐに続く廊下を、私は足早に歩いていた。
本当は駆け出してしまいたかったけれど、長いドレスを着ている以上、それに相応しい振る舞いをしなくてはならない。
結局、日が暮れるまで公務に追われてしまった。
本当はもう少し早く終わらせるつもりだったのに、あの古狸が余計な件を持ち込まなければ……。
思わず皺を寄せた眉間を、隣を歩くノクスに見咎められ、仕草で窘められる。
ああ、本当に。
こんな顔は、彼には見せたくない……。
私は、歩みを止めないままに、深く息を吸って、吐く。
彼が私との結婚を受け入れてくれるというのなら、せめて私も、彼の隣に立つ女性として相応しいように、見た目だけでも女性らしく、美しくありたい。
そう願ってから、ふと疑問が過ぎる。
果たして、それでいいのだろうか。と。
国の者達が私に求めているのは、間違いなくそういった姿なのだが、彼は私に、一体何を求めているのだろうか。
彼は、私が欲しいと言ってくれた。
けれど私には『私』がどういうものなのか、いまだに分からないままだった。
ノクスの開けた扉をくぐる。
「お待たせして、申し訳ありません」
上がる息を堪えて、淑女らしく礼をする。
色とりどりの花で飾られた食卓には、ヴィルと、その後ろに彼の従者。それになぜか、父が居た。
「お父様……!?」
私の声に、父が苦笑を浮かべる。
「いや、勝手にすまないね。お前が手間取っているという話を聞いて、少し話をさせてもらっていたんだ」
父は雪のような真っ白な毛並みを揺らして、赤い瞳を細めるとそう言った。
父が席を立とうとする仕草に、ヴィルの従者が椅子を下げる。
父は何故か、一人も供を付けずに来ていたらしい。
そういえば、扉の外に二人ではなく三人立っていたような気もする。
急いでいたので、よく見ていなかったけれど。
父は呆然としている私に近付くと、そっと囁いた。
「お前の伴侶となる人が、良い人で安心したよ」
「!?」
一体、父はヴィルとどんな話をしたというのだろうか。
思わず振り返る私に父は赤い瞳をゆっくり細める。
その瞳には、深い深い懺悔の色が、チラリと見えた。
「……私は、お前の幸せを願っているよ」
小さな囁きは、おそらく兎の耳にしか届かない、そんなささやかなものだった。
……どういう、事なのだろうか。
悩む私の横を父は通り過ぎると、部屋の出口で振り返り「邪魔をしたね」と爽やかに微笑んで部屋を出た。
父の背が扉で見えなくなって、私は視線をヴィルに戻す。
ヴィルはふわふわとしたたてがみを揺らすと、私に着席を促した。
「まあ座れ。疲れただろう」
「あ、ありがとうございます。遅くなってしまい、大変申し訳ありません……」
謝罪の言葉を口にしながら私が席に着くと、ノクスがそっと椅子を押す。
「二人だけの時は、敬語じゃなくていいだろ?」
どこか寂しげにそう言われて、それもそうかも知れない。と思って口を開きかけて、閉じる。
「……っ」
私の素の口調は、あまりその……、女性らしくはない。
それでも、本当に……良いのだろうか。
「……昨日は、普通に話してくれたじゃないか」
その声が酷く寂しそうに聞こえて、私は慌てて顔を上げる。
「あの……そ、の……」
「ん?」
ヴィルは、白い瞳をゆるりと細めて私の次の言葉を待っている。
その眼差しに、私は思ったままのことを伝える。
「あまり……私の、言葉は、女らしくない、から……」
ヴィルは一瞬キョトンとした顔をして、それから答えた。
「当たり前だろ。お前は男なんだから」
彼の言葉に、胸が痛んだ。
彼は、私の事を男だと思っているのだ。
彼が私に求めているのが、もし『男の私』なのだとしたら……。
私が既に、男で無くなってしまった事を、彼が知った時、彼はどう思うのだろうか。
息が苦しくて、俯く。
涙が零れそうで、ぎゅっと両手を握り締めた。
「アンリ……?」
彼の気遣うような声。
と、同時に誰かの咳払い。方向的に、彼の従者だろうか。
ヴィルは慌てて口元を押さえた。
「や、違うなええと……。お前を『アリィ』と、呼ばせてもらってもいいか?」
初めて聞く名に、私は顔を上げた。
「アリィ……?」
口に出してみる。男性とも女性とも取れそうな、けれどもどちらでもなさそうな、その呼び名は、私によく似ているように思えた。
私を見つめるヴィルが、真剣な、どこか不安そうな瞳をしていることに気付く。
私が気に入るかどうか。それだけの事が、この人にとって、そんなに大事な事なのだろうか。
「ありがとう……。嬉しい……」
心配そうな彼に、私は微笑んだつもりだった。
けれど、細めた瞳からはなぜか涙が零れた。
彼が、慌てて席を立つ。
何でもないと、心配しないでと言いたかったけれど、言葉は喉に詰まってしまった。
次の瞬間には、私の頭はすっぽり、彼のふかふかの胸元に埋められていた。
「呼び方が変わっても、俺の中の、アンリは死なないからな!」
ぎゅっと頭を抱え込まれて、彼の声が酷く近い。
「俺はいつまでも、アンリを忘れない!」
彼が、私を思ってくれているのが伝わってくる。
けれど、彼が思っているのは、アンリだった。
過去の……。
今はもう居ない。アンリだった私だ。
あの日、アンリは確かに死んだ。
アリエッタと共に。
あの日、二人はもう死んでしまった。
今ここにいるのは、どちらでもない『私』だけだった。
「……アリィと、呼んでください……」
私は、震える声でそれだけを伝える。
せめて、今の私にも名前くらいはあってもいいだろう。
心のどこかで、私はそう思った。
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