長い冬と約束の春

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長い冬と約束の春

当初一週間の滞在予定だったヴィルは、十日、十二日とその滞在期間を延ばしていたが、二週間後の十四日目に、ようやく帰りの船に乗ってくれた。 彼の乗った船が遠ざかるのを見送りながら、正直私は、ホッとしていた。 彼は、優しかった。 私の事を、彼の精一杯で、大切にしようとしてくれた。 けれど、彼が大切にしようとしているのは、私ではなくあの頃のアンリで、それを感じる度に、私は胸が引き裂かれそうだった。 私はもう、アンリではないと、あの頃と同じ体ではないと、何度も告げようと思った。 でも、できなかった……。 それを知った彼の顔を見るのが……、怖くて、たまらなかった……。 私に愛を伝えようとすればするほど、私の表情が暗くなる事を、きっとヴィルも気付いていたのだろう。 一昨日の、夜に見たヴィルの顔が蘇る。 あんなに悲しそうな彼の顔は、今まで見たことがなかった。 まるで私に裏切られたとでもいうような、酷く傷付いた目をしていた。 ……彼にあんな顔をさせてしまうくらいなら、もっと早く、私から打ち明けていればよかった……。 「アリエッタ様、ここは冷えます。中にお入りください」 ノクスに肩を触れられて、思わずびくりと身をすくめる。 黒毛の従者は、何も言わずにその黒い瞳を伏せた。 ……一昨日の夜、私はノクスに助けを求めてしまった。 それが、彼を……ヴィルを酷く傷付けてしまった。 あの時、私が彼を受け入れていれば、彼は……。 彼は…………。 私を、どう思ったのだろうか……。 いつまでも海辺に立ち尽くしていた私の肩に、そっとショールが掛けられた。 いつの間にかノクスが取って来たようだ。 「……ありがとう」 「いえ……私が……」 それきり途絶えた言葉に、私はノクスを見上げた。 ヴィルほどではないが、兎族の中では背の高い彼。 すらりと細い彼を見上げれば、その整った細い眉は、どこか苦しげに寄せられていた。 普段、言い淀むことなんてまずない彼の、それどころか表情すらあまり変わらない彼の、そんな姿に驚く。 「私が……出過ぎた真似を致しました……」 どうやら、一昨日の事を反省していたのは私だけではなかったらしい。 「いいえ……。私が何も言わずにいたのが悪かったの……」 そう答えると、彼は痛みを堪えるようにして首を振った。 一昨日は、月の綺麗な夜だった。 ヴィルは、私に愛を囁いて、優しく口付けた。 まるで私をいたわるような、そんな柔らかな口付けに、喜びと苦しみが重なる。 爪を引っ込めた彼の指が、その柔らかな肉球で私を撫でる。 そうっと、少しも傷付けないように、と。 その気持ちが嬉しくて、同時にとても申し訳なかった。 彼が傷付けたくないのはアンリだったから。 不意に、彼の服が私の首元のリボンを解く。 「いいか?」 と低く囁かれて、私は、はいとも、いいえとも、答えることができなかった。 躊躇う私を、ヴィルは少なくとも否定的でないと受け取ったのだろう。 彼は私の服の留め具を外すと、その内へと指先を這わせた。 「……っ」 彼に愛を持って触れられる事が嬉しくて、でも苦しくて、私は息ができなくなる。 ゆっくりと、彼の指が私の胸を通り過ぎ、脇腹を撫でて、その下へと進もうとする。 彼にそれを知られることは、怖くてたまらなかった。 私が、引き攣る喉で、ようやく呼べた名は、ヴィルではなかった。 「っ……ノクス……っ!」 途端、扉の外にいたはずの従者は部屋に入ってきた。 後ろからは、ヴィルの従者も、やれやれという顔で覗き込んでいる。 ヴィルの従者は扉の前に残り、部屋には三人だけとなった。 「婚前交渉はお止めください」 ノクスは開口一番、ヴィルにそう言った。 「なんでだよ。この城はどの部屋も防音されてんだろ?」 ムッとした様子でヴィルが答える。 「貞操観念の問題です」 「そんなのは、俺達二人の問題だろ」 「……ではご自身の目でお確かめください」 言われて、ヴィルが私をもう一度見る。 私は涙でべしょべしょになってしまった顔を、慌てて伏せた。 肩が震えているのを気付かれたくなくて、自身の両肩を抱く。 それでも、彼には気付かれてしまったかも知れない。 情けなさと恥ずかしさで、涙は止まらなかった。 「私の主人が、望んでいるとでもおっしゃるおつもりですか?」 ノクスの言葉に、ヴィルは何も答えなかった。 そっと覗き見たヴィルは、酷く悲しげな、傷付いた顔をしていた。 一瞬のような、永遠のような、しばらくの沈黙の後、彼は震える声で謝罪した。 「……怖がらせて、悪かった……」 そして、明後日には国に帰ると言った。 まるで、私を少しでも安心させようとするように……。 翌日、彼はいつものように振る舞おうとしてくれた。 それでも、今までより、身体的に距離を取ろうとしているのが分かった。 それらは全て、彼の優しさだったし、誠実さでもあった。 分かっていたのに、それなのに、私は。彼の優しさに甘えて、自分の身体の事を伝えないままに、彼を帰してしまった。 彼の心を傷付けて。謝ることすらできないまま。 私は、なんて身勝手なんだろう……。 知らず俯いていた視線を、じわりと上げる。 彼を乗せた船は、水平線の彼方へと消えていた。
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