ある休日の昼下がりの午後、男はカツ丼を作った

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「ふーー。」 ベランダでタバコを吸う。 荷物の整理が終わり、一息つく。 もうそろそろ彼女が荷物を取りに来る時間だろうか。 大学3年生の頃から社会人4年目になるまでの約6年間。 お互い地方から出てきたもの同士だったので同棲をきっかけに引っ越した2D Kの部屋は静けさに包まれている。 何事もなかったように思えた日々は彼女の「別れたい。」の一言で幕を閉じた。 奇しくもその日は付き合った記念日で僕のポケットにはサプライズで渡す予定の婚約指輪が入っていた。 赤い車がマンションの入り口に止まる。 男女二人組が土曜日の春の晴れた昼下がりに楽しそうに乗っている姿は微笑ましく見える。 僕はタバコの日を消し、彼女の荷物が入った段ボールを玄関の方に持っていく。 たくさんあったはずの段ボールは最後の一個だけになっている。 玄関のチャイムがなる。 変な感じにならないように少しだけ時間を置いてからドアを開ける。 「うっす」 「うっす」 「なんか、久しぶり!髪伸ばした?」 「久しぶり。うんちょっと気分変えようと思って  私の荷物ってそれ?」 「あ、そうそう。今日取りに来ると思って、玄関先に置いといたんよ」 「ありがとう。それとってもらってもいいかな?」 彼女は、マンションの玄関口に頑なに入ろうとしない。 僕は軽い段ボールをなんとなく重そうに持ち上げて彼女に渡す。 「大丈夫重くない?下まで運ぼうか?」 「いや大丈夫だよ。重いものは全部宅急便で送っておいて、あとこれだけだから」 「そうかじゃあ」 「うん。じゃあ」 彼女は去り、僕は戸を閉める。 そして、また静かな2D Kの部屋になる。 しばらくすると車のエンジンがなり去っていく音が聞こえる。 彼女との関係は良好だったように思える。 僕はアメフト部の部員、彼女はマネージャー。 お互い浪人して大学に入ったことから意気投合し、付き合い、そして今まで共に暮らしてきた。 彼女はほぼ毎日手料理を振る舞ってくれた。 初めて作ってくれる料理は絶対に味見をよくさせられていたような気がする。 ある日、四年生の最後の試合の前日。 彼女はカツ丼を作ってくれた。 普段めんどくさがって揚げ物をしないため、初めて食べる彼女のカツ丼を味見した時、「甘!」と言った。 僕は関西の出身、彼女は北関東の出身だったため味付けが甘かったのだ。 彼女は申し訳なさそうな顔をしたので 「いやでもこれもありやな」 と言って一緒に食べた。 もうかれこれ東京生活にもなれ、立ち食い蕎麦屋で頼むカツ丼セットの味にもなれてきた。 久しぶりにあの味が食べてみたい。 僕は近くのスーパーで豚肉と卵、パン粉、そして砂糖を買う。 めんつゆとフライパンは最後まで使えるようにまだ段ボールに梱包していないのでこれでなんとか作れるだろう。 彼女は醤油、みりん、酒を使う料理は基本めんつゆで作る人だったから。 炊飯器は片付けてしまったし、お米も使い切るよう計算していたので、パックのお米で代用するしかない。 そして家に帰り、カツ丼を作り始める。 油を鍋に敷き、豚肉を卵に潜らせ、パン粉をつけて、温めた油に入れる。 ぱちぱちと心地よい音が静かな部屋に響く。 その間に玉ねぎを刻み、準備をする。 トンカツが上がるとそれを一度あげ、フライパンが一つしかないため油を他の容器に移す。 その後、めんつゆと砂糖と少しのお水を入れた後、玉ねぎを一緒に煮込む。 玉ねぎがしんなりしたら、トンカツを入れ少し煮込んだ後卵をまわしかけて完成。 そういえばご飯を忘れている。 電子レンジはどこにしまっただろうか。 積まれた段ボールの山を見て、とても探す気になれない。 仕方なく温めずに、パックのご飯をお椀にうつし、その上にカツをのせる。 手近にあった割としっかりしたダンボールを机に出し、カツ丼を食べる。 咀嚼するたびに口の中でご飯にあたたかさが移っていく。 咀嚼するたびに玉ねぎの甘さが伝わっていく。 咀嚼するたびにシャクシャクという音が聞こえる。 「この味じゃない。」 そう言った時、僕の頬を涙が伝っていた。 そういえばいつも味見をするだけだった。 彼女が作っている間、彼女のそばにいたことはなかった。 どうやって作っていたのかわからない。 まだ豚肉が余っている。 昼下がりには豚肉が売れて、使いにくい3枚セットのものしか残っていないから。 もう一度カツをあげ、玉ねぎを煮込み、卵を回しかける。 そして冷たいご飯にのせる。 でもこの味じゃない。 そうしてもう一度カツをあげ、玉ねぎを煮込み、卵を回しかける。 でもこの味じゃない。 この味じゃない。 この味じゃないんだ。 お椀に涙がこぼれる。 食べかけのカツ丼に涙がこぼれる。 どんどんお椀の中に涙が溢れていく。 この味じゃないんだ。 もう一度作り直したい。 でも、お椀のカツ丼が減らなくなってくる。 三杯目のカツ丼はもう喉を通らない。 「もう食べられないよ、、、」 段ボールだけが積まれた殺風景な2DK。 静けさを保ったこの部屋にはしゃくりあげる声だけが響く。 僕は明日この部屋を出ていく。 2DKの部屋は僕には広すぎるから。 洗濯ができないため久しぶりに履いたズボンには渡せなかった婚約指輪が入っていた。
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