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ようやく子供たちの波が落ち着いた頃、もう一度あの物陰へひっそりと視線を送るもあの人影はもうそこにはなかった。
更に客が来る様子もないので、犬養は一度裏の奥の部屋へ足を運ぶ。休憩はもちろん、店長に一言伝えておこうと言う魂胆だ。
扉を開ければ、煙草を吹かしている店長が珍しくパソコンと真剣に向き合っていた。
犬養が顔を覗かせていることに気づいた店長は、パタンとパソコンを閉じてはちゃぶ台に肘をつき、犬養を見てはニヤついていた。
「お、なんだ?サボりかー? 」
「違います」
店長の明らかなからかいに、犬養はピシャリと切り捨てた。それに対して店長は別に傷ついた様子はない。犬養も店長が冗談で言ったのもわかっていたので、更に言葉を続けた。
「店長に報告です」
「お、報連相ができるのはいいことだね。ポイントつけよう」
「ありがとうございます。それでですね」
「もうちょい喜ぶ素振り見せてもいいんじゃね? ……まあいいや、話は何だ?子供らが商品棚倒したか?」
「いえ。店長が言っていたと思わしき変な臭いを纏った怪しい人物が物陰からこちらをずっと見ていたので」
報告です。と犬養が言い終わると、店長は目を細めて何かに思考を巡らせている様子だった。
カチカチと、壁に掛けられた時計の秒針が異様に大きく聞こえるも、それは僅かな時間だけ。店長の中で答えが出たのか、細めていた目がパッといつもの眠そうな目つきに戻ると、ふぅーと紫煙を吐き出しては煙草を灰皿に押し付けて閉じていたパソコンをまた開いた。
「ん、了解。報告ありがとな。あとはこっちでどうにかすっからキミは持ち場に戻れ」
パソコン画面に集中し始めた店長はそう言うと、犬養を部屋から追い出すようにしっしっと手で払う。
犬養としては休憩も兼ねて部屋に来たので、追い払われた事に一言抗議しようかとも思った。しかしパソコンと向き合う中年男性の表情があまりにも真剣そのもので、邪魔しては悪いし仮にここで抗議したら試験を落とされかねないので渋々売り場へと戻る。客さえ来なければ休憩はいつでも取れるような羨ましい職場なので、犬養本人もそこまで文句はなかった。
時計の針が日の入りを知らせるまでに、何回か子供たちの波がやって来る。それを慣れたように捌いていけば、いつの間にか店を閉める時間が迫っていた。業務よりも休憩の方が多かった気がするが、それでもやはり働いていることには変わりないので、犬養はドッと疲労が出てくるのを感じていた。そしてまるでそれを労うように店長が駄賃の駄菓子を渡す。もう五日目となれば、この流れが日課になりつつあった。
また、犬養がこの駄菓子屋に来てから店長はほぼ控室も兼ね備えた奥の部屋に引き篭もっているため、店仕舞いも犬養の仕事になりつつある。何故駄賃の駄菓子を貰ってからこの力仕事をしなくてはならないのだと愚痴を零したくなりながらも、それを飲み込んで暗くなった空を見上げながら犬養はシャッターを閉めていく。
「きゃあああああ! 」
シャッターを閉め終わったと同時に、突如甲高い悲鳴が犬養の鼓膜を刺激した。それはどこからどう聞いても子供のもので、おまけにとても聞き覚えのあるものだった。
方角的に悲鳴は店の裏から聞こえた。犬養はシャッターの施錠も曖昧に慌てて裏へ回れば、見覚えのある顔が人型の何かに担がれて目の前を過ぎ去っていく。
顔に特徴的な痣を持った特徴的な臭いの少女。いつもハチャメチャな支払いで駄菓子を買っていく三人組の一人だ。少女はいくら人外とは言えまだ子供。恐怖で青く染まり、今にも泣きそうな表情が路地の暗闇へと消えていった。
あまりにも一瞬の出来事に呆然と立ち尽くしてしまうも、相手が走っていった名残がくんっと鼻を撫でる。少女の特徴的な臭いの中に今日嗅いだばっかりの臭いが混ざっていた。
スンスンと鼻を鳴らして分析する。
「(この特徴的な臭いは……)」
更にスンスンと鼻を鳴らして、過去の自分を振り替える。するとピンと犬養の中で答えが導かれた。
「(間違いない! あの時のだ! )」
それは日中、業務中に駄菓子屋を物陰から注視していたあの如何にも怪しい人物と同じ臭いだと犬養は一瞬で理解した。
そうとわかると、犬養は瞬時に走り出していた。エプロンを脱ぎ捨てるなんて余裕もない。犬養はエプロンをはためかせて暗くなった路地を駆け抜けていった。
円河市の入り組んだ路地はまるで大きな迷路のようで、慣れていない者が一度踏み入れたら迷うのは確実。しかし犬養は空気に色濃く残っている特徴的な臭いのおかげで迷うことはなかった。
「(あの子の臭いがわかりやすいのも助かるが──)」
それだけではない。
日中からずっと鼻を刺激していたその臭いを犬養は忘れようがなかった。
「(あの時も思ったけど、何であの如何にも怪しい人間から血と火薬の臭いがプンプンするんだ! )」
出で立ちの時点でこれ以上にない怪しさなのに、人間特有の臭いと一緒にその二つの臭いを纏っていたらなお一層怪しさが増すってもの。彼はこの臭いのおかげでアレが店長の言っていた怪しい人だと判断できたのだ。
犬養はこの平和な日本で嗅ぐことが滅多にない二種類の金属の臭いを頼りに、入り組んだ迷路を的確に走り抜けていく。
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