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「はぁ、疲れたな」
改札を出て少ししたところで要助さんは立ち止まりました。
「そうね、街中に出るなんて久しぶりだったわね」
そう答えたのは奥さんの志津さんです。
「電車に乗るのもいつぶりだろうな。近頃はずっと家の近所で過ごしていたからな」
「自粛疲れって言うのかしら。なんだか気力も体力も落ちちゃってたもんね」
不要不急の外出を控えるようになって早二年。いつもは遠出をしない要助さんと志津さんですが、今日は孫の誕生祝いを送るためにデパートまで行ってきたのでした。
「久しぶりで楽しかったわ。アラ、もう夕方ね。お夕飯どうしようかしら。何かあるもので簡単に済ませていい?」
「お前も疲れただろ。そこの弁当屋で買って帰ろうか」
「そうね」
話しながら要助さんと志津さんが駅の外に出た時です。
「あらっ」
「おう、何だ?」
いつもはスーパーや飲食店が立ち並び、人通りも多くて賑やかな駅前です。それがなんだか薄暗くシーンとしていました。人っ子一人おらず、車も通っていません。それどころか、オレンジ色の街灯にぼうっと照らされた道は石畳で、両側に見慣れないレンガや石造りの古びた建物が並んでいました。
「ずいぶん暗いし静かだぞ。おい、あれか? 今は緊急事態のなんちゃらで、もう店がみな閉まってるのか?」
「そんなわけないわ。第一、街の様子が全然違うじゃない」
「ひょっとして降りる駅を間違えたかな?」
二人が振り返って見てみると、今出てきたはずの駅舎はいつの間にかボロボロの無人駅に変わっていました。屋根の下に柵みたいな改札があるっきりで、明かりも消えて誰もいません。
「どういうことだ。ここはどこだ」
「アッ、あなた、人がいるわよ」
志津さんの指差す方を見ると、向こうの方に、街灯が照らす中にちらりと人の姿が横切るのが見えました。
「とりあえずあの人に聞いてみよう。おーい」
要助さんと志津さんは人影に向かって歩き出しました。どうやら茶色いジャンパーを着た若い男のようです。男は二人の呼びかけに気づかず、スタスタと歩いてビルとビルの間の路地にサッと曲がって行ってしまいました。
「おーい、ちょっと」
要助さんたちも呼びかけながら急いで角を曲がると、もう男の姿はありませんでした。薄暗い路地の先に、ポッとそこだけ明るい光が見えます。
「あそこ、お店かしら」
「きっとあそこに入ったんだな」
二人が行ってみると、確かに一軒の建物に明かりがついて、道に小さな看板が出されていました。
『BAR 猫の泉』
「こんなところにバーか」
「入ってみましょうよ。ここがどこか聞けるし、それにアタシ、前からちょっとバーって行ってみたかったのよ」
「そうか、じゃあ道を聞きがてら、ちょっとだけ飲んでみるか」
要助さんと志津さんはおそるおそる入ってみることにしました。真鍮の取っ手がついた古びたドアを引くとカロンカロンとベルが鳴りました。
「いらっしゃいませ」
白いひげをふさふさと蓄えたバーテンダーに優しく示されたカウンターの席に二人は着きました。
目の前におしぼりとコースターが置かれます。どっしりとした一枚板のカウンターが、オレンジ色のあたたかい照明に照らされてツヤツヤしていました。店内も落ち着いた昔風のしつらえで、要助さんは思わずため息をつきました。
「いい店だなぁ」
「そうね」
志津さんも嬉しそうに辺りを見回しました。
店内には数人の客がいて、それぞれ酒を飲んだり話をしたりしています。要助さんの左には、さっき歩いていた人物らしい若い男の客がいて、バーテンダーから出されたカクテルを受け取っています。志津さんの右側には、でっぷり太った男と茶色い髪を垂らした化粧の濃い女がいて、何か囁き合ったりくすくす笑ったりしていちゃついています。太った男がちらりとこちらを振り返ると、左目に海賊のような黒い眼帯をしているのが見えました。
「何になさいますか」
バーテンダーに尋ねられて、要助さんは困ってしまいました。なにしろ普段はバーなんて来ませんから、注文の仕方がわかりません。でも志津さんはウキウキと嬉しそうです。
「アタシ、カクテルってよくわからないの。お任せしてもいいかしら。お酒はあまり強くないから、甘くて飲みやすいのがいいわ」
「かしこまりました」
「ええと、わしは……。わしもよくわからんから、ウイスキーをお任せで、水割りでいいかな」
ドギマギしながら要助さんも注文を済ませました。
やがて、志津さんの前にはピンク色のカクテルが、洋介さんの前には水割りのグラスが置かれました。
「まあ、きれい。素敵ね」
「おお。じゃあ、乾杯しよう」
マスクを外してグラスを軽く合わせ、要助さんが水割りを飲もうとしたその時です。
「お待ちなさい」
要助さんの手を押さえて止める者がいました。隣の若者です。
「飲まないほうがいいですよ」
要助さんがびっくりして若者を見ると、若者は真剣な表情をしていました。目元のキリッとした美男子です。大河ドラマに出ている何とかいう俳優に似ているなぁ、などと要助さんが思っていると、若者は真面目な顔のままで続けました。
「そのお酒を飲むと、猫になってしまいますよ」
「ええっ」
要助さんが驚いていると、今度は後ろから大きながらがら声がしました。
「別に飲ませときゃいいじゃねえか」
さっきの眼帯をつけた太った男です。
「猫になったって、どうせ夜明けにゃ元に戻るんだ。構やしないだろう。それに、そのじいさんばあさんがどうなろうと、俺たちにゃ関係のないことさ」
「そうはいきませんよ」
若者は要助さんに向かって言いました。
「ご存知ないのでしょう。ここは、猫が人間の姿になってお酒を楽しむための店です。人間がここのお酒を飲むと、反対に猫になってしまうんですよ」
「へえ? ね、猫?」
「奥様はもう猫になってしまわれた。あなたまで猫になったら、夜明けまでに元の街に帰れなくなってしまうかもしれない」
要助さんがびっくりして志津さんの方を見ると、隣のスツールの上には、いつの間にか一匹の黒猫がいました。
ーーにゃあ。
黒猫は一声鳴くと金色の目をパチクリさせました。
「し、志津。お前、志津なのか?猫になってしまったのか?」
要助さんが驚いて尋ねても、黒猫はキョトンとしています。
「ど、どうすればいいんだ。どうやったら人間に……」
要助さんが慌てて若者にすがりつくと、若者は要助さんをなだめるように頷きながら言いました。
「大丈夫、大丈夫ですよ。さっきそこのボスが言ったように、猫になってしまっても夜が明ければ元に戻りますから」
「そ、そうなのか」
「問題は夜が明けるまでに人間の街に帰れるかどうかだな」
ボス、と呼ばれた眼帯の太った男がゲラゲラ笑いながら言いました。
「大丈夫ですよ。さあ気持ちをしっかり持って。奥様を連れて、すぐに出発したほうがいい」
要助さんは訳がわかりません。
「出発って、どこへ」
若者はああ、と頷いて説明を続けます。
「夜が明けると、奥様は人間に戻ります。その時までに元の街に帰れば問題ありません。でも、来るときのようにすぐに帰れるわけではないんです。この街の決まりで、帰りはちょっと遠回りをしていただかないといけないんですよ」
「そんな、道がわかるだろうか」
「大丈夫、簡単ですよ。ほら、こっちです」
若者は店のドアを開けました。
「あっ」
そこは、入ってきた時と全く違う森の中でした。月明かりに照らされて白樺の木が立ちならび、足元には草が茂っています。獣道のような、細い小道がまっすぐ続いています。
「少し時間はかかりますが、この道をどんどん行けばもと来た街に帰れますよ。さあ奥様を連れて、出発してください。驚かせたお詫びにここの代金は私たちが払っておきますから、お気になさらず」
「年寄りにはちっと遠いぜ。せいぜい頑張れよ」
ボスが大声で言いながら乾杯の仕草をしています。
「あっ、志津」
猫の志津さんが足元をするりと抜けて外に出て行きました。
「さあ急いで。お気をつけて」
「ああ、ありがとう」
若者にお礼を言うと、要助さんと猫の志津さんは森の中を歩き出しました。
夜の森の中、要助さんと猫の志津さんは歩いていきました。
大きな満月の、明るい夜でした。辺りの白樺の木々が月明かりにしらじらと浮かび、夜の森の中でも黒猫の志津さんを見失う心配はありませんでした。
しっとりした草を踏み踏み歩く志津さんの背中がつやつやと輝いています。尻尾はピンと立ち、その下で薄ピンクの肛門が歩くたびにピョコピョコ揺れています。
「志津、志津。こっちだよ。戻っておいで」
風が吹いて草木の葉っぱがザワッと鳴ったり、草むらで虫がリリリと鳴いたりするたびに、志津さんは耳をピンとして走って行ったり、飛びかっていったりたりします。その度に要助さんは声をかけて呼び戻しました。
そうして何時間歩いたでしょうか。チョロチョロと流れる小川のほとりに出ました。
「おおい、志津や。ちょっとくたびれたから休憩しようか」
要助さんはそばの岩に腰を下ろしました。志津さんは小川の淵まで行って、前足をちょんと水につけるとブルブルと振りました。それから頭をかがめてチャッチャッチャッと小さな音を立てて水を飲み始めました。要助さんも、リュックから持ち歩いていたお茶のペットボトルを取り出してゴクリと飲みました。
水を飲み終わった志津さんは、岩に飛び乗ると要助さんの隣に座り、毛づくろいをはじめました。
要助さんがそっと手を伸ばして、頭や首のところを掻いてやると志津さんは気持ちよさそうに目を細めて喉をゴロゴロいわせました。
月明かりの中、小川の水面がキラキラしています。せせらぎの音に混じって、時折虫の声がします。気持ちのいい風が吹いています。志津さんの体はつやつやで暖かく、こちらを見上げる金色の目は、スイスイとして二つの小さな月のようです。
「ああ、いい夜だな」
思わず要助さんは言いました。
「もうずっと自粛自粛で年寄りは静かに暮らしていたけれど、こんなに本当に静かな気持ちになったのは初めてかもしれんな」
志津さんも言いました。
「本当にそうね」
「えっ、お前、喋れるのか?」
要助さんが驚くと、志津さんも目を丸くしました。
「あら本当、アタシ喋ってるわね。きっと夜明けが近づいてきたんだわ。さあ、急ぎましょうよ」
それで、二人はまた立ち上がって歩き出しました。
それからは、一歩一歩と歩くたびに志津さんはどんどん人間らしくなっていきました。
日の出が近づいて辺りがうすら明るくなってきた頃には、もう志津さんは人間の背丈に戻って立って歩いていました。まだ顔は猫のままですが、いつの間にかもとのワンピース姿になってハンドバッグまで持っています。
「お前、なんだか劇団四季みたいだな」
要助さんがからかうと、志津さんも悪戯っぽく笑いました。
「『キャッツ』ね。アタシ、あれ一度生で見てみたいのよね。いつかまたミュージカルやコンサートに行けるかしら」
「そうだな」
二人がそんなことを話しながら進んでいくと、とうとう森の切れ目に出ました。太陽が昇り始め、木々の向こうに見慣れた元の駅前通りが見えます。
「ああ、やっと着いたな。たいへんな冒険だったな」
「そうね。でも面白かったわ。そうだ、もしもう一度あの猫のお店に行くことがあったら、今度はあなたもお酒を飲んでみたらどう?」
「いやいや、二人とも猫になったら困るだろう。戻れなくなるかもしれんぞ」
「その時はその時よ。二人で猫の暮らしをしたらいいじゃないの」
そうこうするうちに、志津さんの顔もほとんど元に戻りました。
「結局ご飯、食べ損ねちゃったわね。朝ごはんは何にしようかしら」
「おい、お前、まだ顔に猫のヒゲだけ残ってるぞ」
「どうせマスクするんだからわからないわよ」
「それもそうだな」
笑いながら街に向かって歩き出す二人を朝の太陽が見守っていました。
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