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暗転する。
目の前に現われた人物と目が合って、涼は硬直した意識の遠いところで思った。
古ぼけたランプの明かりが満ちる部屋。自分に覆い被さり、素肌をくっつけている嵐。襖に手をかけて、嵐と、その下で裸を晒している自分を見比べている、俊哉。
その瞳は、まるで恐ろしいものでも見てしまったかのような見開かれようで、涼はただただ、部屋に何か音が発生するのを待った。
床が軋む音でもいい。風の鳴る音でもいい。誰の声でもいい。
とにかく無音のこの時間が、ひたすらに怖かった。
「な…に…し………」
がたん!と大きな音を立てて、俊哉がその場に尻餅をついた。
嵐がその音に我に返り、涼から体を離した。上半身を晒していた涼の首元まで布団をかけ、自分は無言で服を着始める。冷静な嵐もさすがに動揺して、身繕いをする手が覚束ない。
「―――巧、兄貴か」
誰もその問いに答えない。
嵐の短い問いは、そのまま空気の流れすら止まった部屋に所在無く漂った。
「ゆめみ、てんのかな」
体を起こした涼の肩に、嵐が自分のジャケットをかける様子を呆然と見ながら、俊哉は掠れた声で呟いた。口を覆い、気を落ち着かせるように深呼吸する。
「…どう、なってんだ、これ」
「…―――永井」
「どういう、ことだ? 今の、なんだ?」
…じょうだん、だろ?
最後の問いは、ほとんど声になっていなかった。俊哉のかすかな吐息が、部屋の空気を震わせている。目も合わせていないのに、俊哉が一筋にこちらを見つめているのが痛いほどわかる。
嵐のジャケットは薄くて硬い。濃紺のジャケットを直接羽織ると、涼の白い素肌が余計際立って見える。裸なのだと、まるで主張するかのようなコントラスト。
「…なぁ…答えろよ」
すずみ。
その呼びかけには、強い非難と、悲嘆と、信じられないという思いと、信じたくないという思いが込められている。 縋るような響きさえあった。
びく、と涼の肩が震える。それに気付いて、嵐がそっと肩を抱き締めた。
「…お前ら、いったい、なんなんだよ。オレに納得がいくように、今何してたか、説明してみろよ!―――涼!」
再び思考回路が働き出すと、俊哉は声を荒げて涼に詰め寄った。嵐の手をどけて、涼の両肩を掴む。手加減などする余裕はどこにもない。思いっきり涼の肩を掴んで、大きく揺さぶった。
「―――っ、俊哉、痛い…っ!」
「永井! おまえ」
物凄い勢いで手を振り払われた嵐が、驚いて俊哉を涼から放そうとした途端、
ばきぃっ
鈍い音とともに、嵐の体が半身、涼から後退した。
突然すぎて、何が起きたのかと涼は嵐と俊哉を見比べなければならなかった。口元を拭う嵐。息も荒くその嵐を見下す俊哉の右拳は、物にぶつけた後のように赤くなっている。
俊哉が嵐を、殴ったのだ。
「あ―――嵐っ!」
慌てて駆け寄ろうとした涼の前を、俊哉が腕を出して阻止する。そして嵐を睨みつけると、
「お前は少しどいてろよ。オレは、涼に話があるんだよ!」
7畳の部屋に、耳が痛いほど俊哉の声がとどろく。もう悲鳴に近かった。
「―――涼。正直に答えろよ。お前、今こいつと何してた?」
俊哉が別人のように見える。射抜くほどの勢いと強さで見つめられて、涼は知らず体を震わせた。
「なあ、答えろって。こいつ、お前の兄貴だろ? 血の繋がった、正真正銘の兄だよな?」
「俊哉…っ」
大粒の涙が、涼の瞳からこぼれ始める。何に対して泣いているのかもわからないのに、言葉のかわりにひたすら涙が溢れた。
「お前、実の兄と、愛し合っ…」
そこまで言って、俊哉も言葉を詰まらせた。それ以上は、口にしたくないのだと思った。
何かを避けるように顔を逸らした俊哉が再び涼を見上げた時、彼の瞳にもまた、涙が滲んでいた。
「…ようやくわかった」
---俊哉に見られる苦しみより、俊哉があたしのことを忘れる苦しみの方が、きっと幸せだから…
「…お前、こいつとのことを隠すために、ああ言ったんだな」
俊哉が、怒りに満ちた目で嵐を見下す。嵐は何も言わずに、だが恐れることなく俊哉を見上げている。
「実の兄とこんなことしてる自分を、オレに見られたくないから」
そう言って、涼の上半身に目を落とした。嵐の上着を羽織る涼の体に。それに気付いて、涼はジャケットの前を硬く閉じた。もう、こんな光景を見られたのでは、何を言っても俊哉は聞かないだろう。
「…ごめんなさい…―――ごめんなさい、あたしは」
「あたしは嵐お兄ちゃんが好きなの、―――って? オレが、そんな言葉で納得するとでも?」
涼の言葉の先を奪って、俊哉が更に涼に詰め寄る。言い返せない。別人のような俊哉が怖くて、声にならない。
いつもの優しい俊哉ではない。だが、俊哉が知ればこうなるのは薄々はわかっていたことだ。あそこまで大事にして、 慕ってくれた俊哉を理不尽に突き放した自分。本当の理由を知れば、きっとこうなってしまうことはわかっていた。
「…っお願いだから、…あたしのこと嫌いになってよ…」
こんな非道徳的な人間を、どうしてそんなに想ってくれるのか。
いっそのこと軽蔑して、罵って、一生見たくもないと誓ってくれれば、こんな涙など。
「…こんな冷たい人間、どうして好きでいられるの? あたしは、嵐がいない寂しさを埋めるために俊哉と付き合ったんだよ? そうして切り捨てて。なんで嫌いになってくれないのとか思うような、冷たい人間なんだよ…?」
嵐を好きだと思えば思うほど、自分はどこまでも傲慢だと実感する。
嵐への想いを貫こうとすればするほど、俊哉を平気で傷つける人間だというのに。
ゆっくりと視線を上げて、目の前の俊哉を見る。その少し離れたところで黙ってこちらを見ている嵐。
両手に優しさと明るくて平和な未来を抱える俊哉と、未来を希望すること自体許されない嵐。
きっと死ぬまで自分に愛を与えてくれるであろう俊哉と、死ぬまで自分が求め続けるであろう嵐。
こうして目の前に突き出されても、自分が求めるものは少しも揺らぐことがない。
「…違うだろ、涼。お前は、確かに永井が好きだった」
今まで黙っていた嵐が、ふいにそんなことを口にした。
どきりとして、涼は嵐を振り返る。―――まさか。
「お前は冷たい人間じゃない。そんなこと思ってるのは、涼だけだ。お前が他人を利用するだけなんてことはないよ。確かに、永井と付き合ってる頃は涼は永井のことが本気で好きだったはずだ」
「―――嵐、やめて」
雨の日、一条に俊哉のことを説明された時の記憶とかぶる。
嵐は、平気でそんなことを他人に言える。目の前に、涼本人がいるのに。
「だって4年だろ? そんなに溺れるほど愛してくれる男が、4年もそばにいたんだろ? そんな奴に冷たくなれるわけがない。付き合えば、愛せないわけがない。…ただ」
そこで言葉を切り、嵐は俊哉を見つめた。
その瞳は、いつもの感情がない無機質な瞳ではない。
別人かと思うほど熱く、そして決意を秘めて揺るがない、一人の男の瞳。
「涼が幸せになれるのは、永井のそばではなくて、オレの隣りだったってことだ」
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