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22 始まりの雨
殴られた左頬が、熱を持って痛みを主張する。
―――もう後には退けない。
わなわな、と体を震わせる俊哉を見据えながら嵐は思った。後には退けない。いや、後を振り返るつもりはない。 涼と向き合って生きていくと決めた今、どんな人間が自分の前に立ちはだかろうとこの決意は揺るがない。
<…お前は4年、か>
一緒にいた長さがどうしたというのだ。
知らず、拳に力が篭もった。
「…嵐…っ」
泣きそうな声で名前を呼ばれて振り向くと、涼が口を押さえて涙を堪えていた。また泣かせてしまった。
<…だけど今くらい、許してくれ>
ここで退くわけには、どうしてもいかないのだ。
「……おまえ…、正気、か?」
俊哉の震える問いには、明らかに嘲笑じみた響きが混ざっていた。何寝ぼけたことを言っているのだ。顔でも問いかけている。拳が今にも嵐の顔へと襲いかかりそうなのを、必死に堪えていた。
「―――正気じゃないと、あんなことしてない」
瞬時に俊哉の表情が変わった。と、思うと同時に堪えていた拳が一直線に飛んでくる。拳はびゅっ、と音を立てて嵐の頬をかすめて空を切った。紙一重で避けられて、俊哉の怒りは頂点に達したようだ。
「て…っめぇ、―――いい加減にしろ!」
再び繰り出された俊哉の手首を、嵐が掴んだ。
「や…っ俊哉、やめて!」
咄嗟に涼の停止の声が飛ぶが、それすらも跳ね除けるように俊哉は怒鳴る。
「涼は出てくるな!」
一瞬、涼の顔から表情が消えた。
きっと、今まで浴びたことのない怒声だったのだろう。呆然としている涼を見て、嵐はこの男に殴られたことを後悔した。
間近に見詰め合う形になり、俊哉は目で射殺さんとばかりに嵐を睨みつける。ぎらぎらと、怒りと興奮を隠そうともしない俊哉の瞳。
嵐の表情は、だが対照的に静かだった。波紋一つ立たない、湖面のような静けさ。
「…現実を見ろ。オレは、怒りに任せて涼を泣かせるようなことだけは許さない」
嵐の言葉に、俊哉は我に返ったように上半身を少し退かせた。そして、思いっきり嵐の手を振り払った。
「―――何が、現実だって? …お前ら兄妹が愛し合ってるのを、現実だって認めろってのかよ。冗談じゃねぇ。そっちこそ自分が何してんのかちゃんとわかってんのかよ!」
嵐に向けられたものなのに、涼が痛そうに顔を俯けたのが嵐の視界に入る。
俊哉はまだ、涼が自分の言葉で傷付いているということに気付かない。怒りが頂点に達して、感情の昂ぶるままにわめき散らした。気付け、と心の中で呟いても、口に出さなければ気付くはずがない。
だが口に出したところで、今の俊哉は嵐の言葉など聞く耳を持たない。
「…わかってるさ。これは現実を見つめ続けた上での、結果だ」
嵐の一言一言が、確実に俊哉の怒りに火を点す。また震え始めた俊哉の肩を見て、嵐は目を細めた。
<…羨ましい奴>
感情を剥きだして相手に詰め寄れる俊哉を、嵐は冷静に見つめてしまう。
怒りをそうやって露にできるだけ、俊哉はまだ救われる。
だが自分は、怒りをどう表現したらいいかわからない。
この胸の奥でずっと、ひりひりと痛み続けるこれは、怒りという言葉で片付けてしまうにはあまりにも軽すぎる。
怒りにも似た、ひたすらに心を焦がす炎。
炎は気持ちを持たない。ただ怒ったように燃え続けるだけ。
表に出せない憤りは、嵐の中でどす黒い渦を巻き、抱えきれない重さにただ言葉を失う。表情を失う。
<目の前に現われただけでも息苦しいのに>
その腕が、4年間も涼の肩を抱いていたのかと思うだけで嵐は気が狂いそうになる。
涼と何をした。肩を抱いて、キスをして、それから?
同じ場所で笑い、同じものを見て、お互いを愛しいと思い合って。
<…どうしろっていうんだ、オレに>
何かに精神力を試されているのかと疑いたくなるほど、限界まで突き詰められる。
この炎を抱え続けていたら、いつか自分は自滅してしまうんじゃないかと思う。
自分が抱えていた独占欲がこれほどまでに手に負えなくなっているなんて、思いもしなかった。
「これからずっと涼のそばにいる。その決意は変わらない」
誰がどんな邪魔をしても。
奥底で渦巻くあらゆる感情を必死の思いで飲み込み、嵐は言葉を繋いだ。
確固たる決意でもって、嵐の瞳は揺るがない。
「…お前…、狂ってる、ぞ」
怯えたような声だった。まるで、幽霊でもみたかのような、非現実的なものに対して呟く声。
嵐はその言葉を、じっと受け止める。言い返すことはしない。
「…実の、妹なんだぞ。許される関係じゃ…ないんだぞ」
「それもわかってる。誰に言われなくても、オレと涼自身が一番」
愕然とした表情で俊哉が涼の方を見る。涼は黙って、ゆっくりと頷いた。それを見た俊哉は髪をかき上げて、乾いた笑いを漏らした。
信じられない、と掠れた声で呟く。
「はは、…はははは。―――マジかよ。…冗談きついぜ…」
俊哉の力ない笑いに重なるようにして、雨音が聞こえ始めた。
ぽたん、ぽたん、と屋根に雫が落ちる音がしたかと思うと、あっという間に連続的な落下音へと変化した。
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