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月の都にて物思う
姫が罪を犯したことは、宮廷のものなら皆知っている。
そして先日、赦されて都に戻ったことも。
姫を前にして、もはやその罪を責めるものなど一人もいなかった。
赤子になり、また元の姿に成長するまであの穢れた地で過ごすことが罰。
禊として赤子からやりなおした彼女は、まさに「別人」なのである。
あいかわらずの美貌と気品。いや、地上から戻られてどこか愁いを帯びた瞳は、以前とは比べ物にならないほどに人を惹きつける。
「いとしいひとのために、命を捨てられますか」
姫様は夜明けに、ぼんやりとお話をすることが増えた。ぽつりぽつりと口にする言葉の真意は、私にはほとんどわからない。返事などあってもなくてもどうでもいい、というように姫様は語り続ける。
「あのひとは、わたくしのいない世界では生きていたくないと」
淡々と話す姫様は美しい。美しいが、同時に怖い、とも感じる。地上の者のような感情の気配がする。地上で姫様を騙そうとした者、命を落とした者、逆恨みをした者。そして正面から愛を乞うた者。私の適当な相槌にもかまわず、姫様は語ることをやめない。
「ここに還ってからも、帰りたいと願ってしまうの。どうしてかしら」
地を観測していると醜いものが多く目に入る。短い生の間に愛して、憎しみあい、騙しあい、殺しあうことすらある。月とはかけ離れた場所だと。姫様を迎えに行った侍女たちも、地上のものはすべて醜いといって眉をひそめ、事が済むとすぐに身を清めに向かった。(さすがに姫の養父母を面と向かって貶めたりはしなかったものの、見下しているのはよくわかる。)
私たちはこの美しい月に産まれ、生きていく。老いることもなく、死ぬこともない。地上の人のように誰かを好み、交わり、子を増やすということもない。だからこそ私たちは美しいのだ。なのに。
「あなたは、わたしのために命を捨てられますか」
吸い込まれるような黒い瞳が私をまっすぐ見据える。
逃さない。
私を捉えた瞳が、掴んだ手が、開かれる唇がそう語る。
振り切って大声を出したら、近くにいる侍女が来てくれるだろうか。でもそんなことは、私には許されていない。いま、許されているのは彼女への返答のみだ。
「ねぇ、連れ出してくれる?」
人を思う、ということはどういうことなのか。
こんなことを、考えてはいけないのに。姫様の羽衣に指を伸ばす。
誰か来てくれ。そう思う反面、誰も来ないでくれと願ってしまう。
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