人魚姫の姉

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 眉根をぐっとよせてこちらを睨みつけるのは、昨晩消えた娘の姉のひとりであろう。人魚に涙はない。涙はないから、苦しみが怒りが喉元にずっと燻ぶってしまうのだ。  歪んだ顔。しなやかな尾ヒレは泥で汚れている。ポリプに捕まりかけたのか、いくらか傷ついてもいた。日の当たる場所ではきらきらと輝くウロコも海底では鈍い光を反射するだけだ。  まばゆいほど美しかった長い髪の毛は、うなじのところでぶっつり切れてしまっている。あの魔法の薬を無効化するために他の姉妹と一緒に切り取ったのだ。その髪の毛と引き換えに渡した短剣は、今は彼女の腕の中にある。その腕も小刻みに震えていた。恐怖か、それとも怒りなのかはわからないが、おそらく後者であろう。  沈黙ののち、思い切ったように彼女は唇を開いた。 「貴方が、騙したんでしょう」 「とんだ御挨拶だこと。それともこれが由緒正しき海の王族のお作法なのかい。妹の方が礼儀正しいね」  姉娘の短剣を握る手にぐっと力がこもる。白骨でできた揺り椅子に腰かけた魔女は、海蛇を撫でながら答えた。 「あの子が望んだことさね、お嬢さん。あたしはちゃあんと、言ったよ。無事にはすまないってね。切り裂くような脚の痛みや、あたしの血の対価として舌を切ることも言った。もちろん心臓が破裂しちまって泡になって死ぬことも」 「嘘。貴方、人魚の舌が欲しかったんじゃないの? おばあさまから聞いたわ。人魚の舌が魔法薬の材料にもなるって。  舌が欲しかったからあんなふうに妹を騙して、殺してしまったんじゃあないの!?・・・・・・あんな薬なんか作らなければ。あの子に『ヒレを脚に変えるなんて無理』と言ってくれたらよかったのに。脚があればあの人間と結ばれるように言って騙したのね、詐欺師だわ」  肩を怒らせてこちらを睨みつける娘。  海蛇が怒気にあてられて牙をむこうとするのをそっと制して、魔女はその怒りの目線をゆっくり、正面から受け止める。 「口を慎め、小魚よ」  激情にかられていた姉も、さすがに口を止めた。その海溝のような光のない瞳が、若い人魚の娘の怒りの炎をのみくだしていく。 「では聞こうか。何故、妹の秘めた心を打ち明けられたとき、ほかの姉妹や友人に話した?」  長く赤黒い舌からは呪詛の言葉が紡がれる。 「そんなことをしなければ、あの男の場所を知るものに秘め事が伝わることもなかった。お前の可愛い妹は、あの男のもとへ一生辿り着くこともできなかったのだ。そのまま上の世界で男の命が尽きるまで、御殿で数十年でも過ごしていればよかったのだ」  聴きたくない、見たくない真実に娘は逃げ出したくなった。しかし海底の魔女の瞳が、娘をしかと捉えて離さない。腕を動かし耳を塞ぐことすら、体が忘れてしまったようだ。  魔女は静かに立ち上がると、その大きな体をゆすりながら、ゆっくりと娘に近づいてくる。  魔女の短い髪の毛が、うねうねとヘビのように水流に舞っている。前に立つと、彼女の記憶を思い出させるように、すべすべしたひたいに、尖った指をあてた。 「あの誕生日の夜、宴を抜け出して城から出ていくあの子に、何故、気が付かなかった? お前たちがつかの間の享楽にふけっていないで、あの子から目を離さなければ、少なくともこの一年の間は薬を手に入れることはできなかったろうに」  まるで幼子に教えるように丁寧に。 「その間に諦めることも、別の恋人と出会うこともできただろう。思いとどまる可能性がたくさんあったろうね。それをお前たちは愚かしくも宴に酔いしれ、破滅の波を止める機会をみすみす逃がして、あの子をあたしのところにやったんだよ。――ねぇ。」  哀れで愚かな娘を嘲るように。 「あたしは、あの子の苦しみを聞いた。あたしは御前達を攻める言葉を百は知っているが、顔をあわせる機会もなし、なにより小魚共を憐れだと思ってしないでやっているのさ。それを赦しているというのにわざわざこちらに出向いてブクブクと文句を垂れやがって。あたしが彼女を殺したというのなら、そして――その剣で、愚かしくも仇を獲ろうというのであれば」  いつの間にか姉娘を海蛇が取り囲んでいる。皆、大きな口を開けて合図を待っているようだ。その牙には恐ろしい毒がある、と聞いたことがある。ぞくり、と背筋が泡立つのを感じる。娘が怯えたのに気が付いた魔女は、にっこりと笑った。 「ことは早く済むんだ。おまえが肉塊になることですべて片が付くよ。いま、あたしのかわいい眷属は気が立っているんでね」  姉娘は、のろのろと泳ぎ去るしかなかった。
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