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史香の知らない場所に住んで死んだ文子はそこでどんな生活を営んでいたのだろうか。作家以外で思い当たる職業など知らない。書くはしなかった文子でも本は身近だった。嫌がっても遠ざけても書物は一番身近に在った筈だ。書店勤務? 図書館員? 史香は首を振った。……史香はくじを振った。どれも文子の像に当てはめることが出来ない。取ってつけたようにちぐはぐだ。いずれにしても幸福だった、と断言出来かねる人生だったのは間違い無い。縁も所縁も人間も居ない場所でどう幸福になれるのか、史香には分からない。
文子が住んでいた、という町に着いたのは真夜中近かった。街灯は殆ど無い。実家の周りよりも闇が濃い。その濃さはまるで墨汁のようにべっとりと質感が有る。それに海の香りが鼻を突いては史香の中に入り込もうとする。纏わりつかれたら振り切るのに苦労しそうだ。昔から匂いの強いものは苦手だった。身体が自分のものでは無くなっていく感覚を無理やり持たされるから。
ビジネスホテルの部屋分けは父母と史香に別れた。史香は荷物を整理するとシャワーを浴びて直ぐに眠った。夢も見なかった。しかし朝の目覚めはすっきりしなかった。窓から町の全貌が見えた。田んぼや畑が多く、遠くに海が見える。港は見えないが鎌倉のように太平洋が直ぐ傍に有る。実家は高台に有り、一駅二駅を超えないと海は見えない。作家業を捨てたと同時に家を捨てた文子でも故郷を振り切ることは出来なかったか、と史香は喪服に着替えながら漠然と考える。喪服に着替えるのは離婚する前、七年ぶりだ。頻繁に着る物では無いから当時のままだ。七年前の義父だった人の葬式の時、史香は泣くことはおろか、悲しむことも無かった。その時と同じ喪服を着て何も悲しくない史香は文子の葬式でも同じように泣けはしないだろう。
警察署で司法解剖を終えた文子と対面を果たした。三十数年後に見る姉は予想に反して綺麗だった。死因は一酸化中毒で家全体に寝タバコの火が回る前に死んでしまったのだろう、というのが警察の意見だった。依子が泣き崩れ、それを宥めながら史香は死んでも人は血以外で赤色を持てるのか、と冷たく感心してしまった。火事で死んだ人間は死んでも赤色に付き纏われる。
史香は首を垂れて動かない慶史郎を一瞥した。史香は早く出たかったが自力では立てないほど泣くことにエネルギーを使い果たしている頼子をそのままにしておけない。その時ノックの音がした。慶史郎が応えると三人を案内した警察官が扉を開けてスーツを着た五十代ぐらいの男と袈裟姿の僧侶を中に入れた。
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