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 史香は月刊誌に連載している小説の最終章をポストに稿するとうーん、と身体を大きく伸ばした。その上をぴゅううぅ、と突風が吹いては花弁や砂や塵を一緒くたにして飛ばす。史香はいつもUSBフラッシュメモリでは無く、紙に印刷して郵便で出版社に送っている。紙とその上で文字がばらばらに陳列しているのを見ると気分が高揚する。デビューした当時を思い出す。初めて校正刷り原稿を貰い、それに修正の赤ペンを入れた時に史香は初めて作家になった、と自覚した。書きあげたものが己以外の人間に手を加えられることは侵略で有るか理想的な改革で有るか、恐らくその差は紙一重だ。本当の政治が一人で行うものでは無いが、最終的な決定権が総理大臣に有るように、良い小説は結局のところ自分との戦いで有ることを史香は幼い頃から両親を見て知っていた。担当編集者は助言者で有るかも知れないが、代弁者では無いのでこれを間違えてしまうと両者の立場は逆転する。作家はいつも彼らを追い越させてはならない。父のおかげで史香はスタートを間違えて自滅した同業者の仲間入りをせずに済んだ。  ポスト前から離れると史香はいつも寄っているカフェに足を向けた。その時、鞄の中の携帯電話が着信を報せていて史香は電話に出た。母からだ。  「もしもし? お母さん?」  最初に聞こえたのは名前を呼ぶ声では無かった。鼻を啜る音で始まり、やや待ってから母の頼子(よりこ)が『史香?』と呼ぶ声が聞こえた。  「お母さん? 何、どうしたの? ……まさかお父さんに何か有ったの!?」  『……違うの。お父さんには何も無いわ。元気よ。そうじゃ無くて文子(あやこ)よ』  史香は一瞬分からなかった。「……お姉ちゃん? お姉ちゃんがどうかしたの? 連絡有ったの?」  すると鼻を啜る音が大きくなった。『今朝、消防署から電話が有って、文子が死んだって言うの。火事で……たった一人で……史香、今日家に帰って来て頂戴』そこで頼子は号泣した。その様はまるで堰が決壊したような、限界を迎えた泣き方だったので史香はそこで初めて最初から母が泣いていることに気が付いた。史香は頼子を宥め、電話を切るとカフェに向かう足を家へと戻さず動けずしばらく突っ立っていた。  姉が死んだ。史香のたった一人の姉が死んだ。家族で唯一物書きでは無かった姉はそれらしく、何も遺さずに死んだ。  文子は史香の三つ上の姉だがここ三十数年、顔を見ていなかった。その息も知らない。顔も最後に見たきり時間が動いていない、見た二十二歳のままだ。そして何の職業に就いていたのか知らない。。それなら同業の誰かの耳に必ず入る筈だ。名前も息の気配も公私共に史香の生活圏に介入しなかった姉が今、ぐうん、と近くに居た。今までで一番近くに居たかも知れない。並んで食事についていた、宿題を一緒にやった幼い時分、あの日々以来。
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