47人が本棚に入れています
本棚に追加
「おうち、無くなっちゃった……どうしよう……もう、何処にも帰れない」
「じゃぁ、うちに来たら良いよ。いっそ、このまま家族になろうか」
ーー『震災』『卒業』と聞くと、私には必ず思い出すことがある。
2011年3月11日の14時46分、私は、東浦和にある塾にいた。
そこは、私の昔の勤務先でーー当時の勤務先を離職していた私は、そこで日々の食い扶持の為、講師のアルバイトをしていたのだ。
親の脛を齧りたくはない。
そのプライドだけが、何度も転職を繰り返した私の心を支えていた。
午前中から勤務を開始し、生徒に問題を解かせている間、遅い昼食を買ってこようと外出し、コンビニを出た矢先……あの出来事は起きたのである。
東日本大震災。
あの恐ろしい瞬間は、きっと永遠に忘れることはないだろう。
剥がれそうな位揺れる駅前の店の看板。
ビル自体も、まるでウェーブをする群衆の様に波打っていた。
自然と、そこで1番広いロータリーに集まり、固まる人々。
突然過ぎる出来事に、何が起きたのか分からなかったのだ。
無論、私も。
揺れがおさまっても、かなり長く立てなかったことだけは覚えている。
立った瞬間、またあの揺れが来るのではないかーーそんな不安に心が完全に囚われていた。
が、そこで私はふとある事を思い出す。
(確か、校舎には生徒が何人か来ていた筈だったな)
私が勤務していたその校舎兼企業は非常にブラックな塾だ。
(果たして生徒達は無事なんだろうか……?)
心配になり、校舎に戻る私。
非常階段の方に回ってみるが、誰か降りてきた形跡はない。
念のため、校舎裏手の広い駐車スペースにも回ってみる。
と、そこで私が目にしたのは……まぁ、概ね予想通りの光景だった。
生徒を危険である建物内ーー教室に放置して、講師達が外に出てきていたのである。
言っておくが、当時の校舎はビルの5階にあった。
(また余震が来て、ビルから生徒が出られなくなったらどうするんだよ)
慌てて校舎に戻ると、中に残って生徒達に必死に声をかけ続け安心させていた事務員さん達と協力し、先ずは生徒達を安全な近くの広い場所に避難させる。
エレベーターは止まっていた為、勿論階段を使った。
先程確認した、あの非常階段だ。
無論、降りている間すら、また揺れるのではないかという不安が、常に胸の中で渦を巻いていた。
大人の私ですら、あれ程不安だったのだ。
教室に取り残された子供達は、どれ程不安だったことだろう。
子供達の胸中は、察するに余り有る。
ちなみに、講師達はのこのこ後からついて来た様だ。
そうして、今更ながらに生徒の点呼をしている。
(本当に、やっぱり、こんな職場辞めて良かった)
ともあれ、生徒の中に特に大きな怪我人はおらず、一安心する私達。
だが、問題はこの後だった。
実は、この場にいる生徒達の内数人は、校舎のある東浦和が地元ではない生徒達だったのだ。
当時、東浦和校には、うちの塾では『合格請負人』として、(あくまでうちの塾内では)有名な講師がいた。
彼等は、春休み直前で学校が早帰りだったのを利用し、その講師の個別指導を受けに来ていたのである。
つまり、帰宅には電車かマイカーが必要になる訳だ。
が、ご存知の様に、当時、電車等あの大地震の影響で全く動いていなかった。
ならば、塾に置いてやれば良いーー普通の方はそう考えるだろう。
私も事務員さん達も、そう思っていた。
生徒達は、事態が落ち着くまで、校舎に置いて貰える筈だ、と。
しかし、校舎の教室長は我々が予想もしなかった結論を導き出した。
なんと、生徒達を全員梃子でも帰宅させると言い出したのである。
生徒を校舎に残して、怪我でもされてしまったら、厄介だと考えたのだ。
緊急事態程、人の本性が出るというのは、まさしく本当のことである。
当時の教室長は、ただ、自分の責任問題になるのが嫌だったのだ。
だから、彼は、自己の保身の為、子供達を危険に晒す道を安易に選んだのである。
最初のコメントを投稿しよう!