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第1章 夢だったもの
「とうさま、さりかたおうこくって、どんなところなの?とうさま、こないだ、そこにいってきたんでしょ?」
ティーザが尋ねると、父のボイグは笑って頭を優しく撫でてくれた。ティーザが住んでいるズトッス王国では、あまり子どもの頭を撫でて親愛の情を表す習慣はない。隣の国、サリカタ王国の習慣だ。山を越えて隣の国なのに、随分、習慣や風俗が違う。
ズットス王国の人々は、昔からサリカタ王国を目の敵にしてきた。だから、サリカタ王国のことや、そこに住んでいるサリカン人のことも、内心では馬鹿にしている。でも、ボイグはサリカタ王国の習慣をしてくれた。
それが、無性に嬉しくて、ティーザはそれが好きだった。掌から優しさが伝わってくるようで、嬉しかった。
「そうだな。サリカタ王国は夢のような国だよ。」
ボイグは言って、ティーザを膝の上に乗せると優しく話し始める。
「ゆめのようなくに?」
「そうだ。初めて行ったら、きっとおとぎ話の中にやってきたと思うだろうね。私はサリカタ王国が好きだよ。ズトッス王国の人達は、サリカタ王国の進んだところを見習うべきだ。何百年もずっとルムガ大陸一の医療大国だし、今は結局、分かってみたら、何百年もずっと世界一の医療大国だったってことだ。」
「いりょうたいこく?」
「ごめんよ、ティーザ、難しい話になってしまったね。お医者さんがたくさんいるんだ。そして、いつも、どんな時でも体調が悪かったらお医者さんに見て貰える。お金の心配もいらないんだ。」
「…へえ!」
この時、まだ、五歳だったティーザもお医者さんにかかる時に、お金がいらないということが、いかに凄いことかを理解していた。なぜなら、近所の子どもの具合が悪くなったが、お金がなくて、そこの家の親が父のボイグにお金を借りに来たことがあるからだ。
「さりかたおうこくだったら、あのこもすぐにおいしゃさんにいけたのに。」
そのことを思い出して言うと、ボイグはティーザを優しく褒めてくれた。
「ティーザは優しい子だ。そうだね。」
「ねえ、ほかには?」
「サリカタ王国では、何でも石に記録をしているんだよ。どういう仕組みなのか、私もよく分からないけれど、それがよくできていて簡単に書いてあることを盗まれない。本当に面白いし、とても綺麗だよ。美しい水晶の石版に、たくさんのことが記録されているんだから。宝石に記録されているんだ。」
「へえ、ほうせきに…!?」
宝石、という響きは昔から好きだった。だって、とてもキラキラしていて、いかにも特別そうな感じがする。それに何やら分からないが、何かを書いてあるのだとは分かった。
「ほかには、ほかには?もっと、きかせて。」
ティーザがせがむと、父はそうだなと考えた。
「あ、そうだ。サリカタ王国に住んでいるサリカン人は、昔からの民族衣装を好んで着ている。最近のルムガ大陸や世界で流行しているような、現代的な服には見向きもしないんだよ。今も剣を腰に下げているし、お馬にも乗って、馬車も未だにある。それなのに、不思議な音を出す乗り物にも乗っている。」
「…はあ……!」
ティーザにとって、商売で隣国に行って帰ってくる父からの土産話を聞くことが、一番の楽しみだった。
「お前が大きくなったら、一緒にサリカタ王国に行こう。父さんも一緒に行けることをとても、楽しみにしているよ。」
「うん…!」
そう、約束していたのに。
「今度、帰って、仕事が一段落したら、お前も一緒にサリカタ王国に仕入れに行こう。」
「うん…。やっと父さまと一緒に旅ができるね。」
「そうだな…!お前には話しておきたいこともある。だから、今度の旅で色々と伝えておこうと思っているよ。」
そう、言っていたのに。
「な…なんです…か、これ?」
テーブルの上に置かれた壺を目の前にして、ティーザは間抜けに聞き返すしかできなかった。
「…申し訳ない。サリカタ王国では、火葬が義務づけられている。外国人でもそれは同じで、亡くなった場合、遺体をそのまま祖国に持ち帰ることは不可能だ。」
ティーザは意味が分かっていなかった。理解できない、何が起こっているのか。
「すぐに電報で知らせたのだが…。」
父、ボイグが経営している…いや、経営していた店というか、小さな会社の共同経営者、バーポ・ルルーが残念そうな顔をした。
「はい。わたくしもすぐに、お嬢様がお泊まりのホテルに電報で知らせました。ただ、女学校の旅行で首都のウーカにまで行かれておりましたから…。」
女中で、ティーザにとって、母のように世話をしてくれるベラが、ティーザの代わりに答えた。『チチ、ジコ。スグ、カエレ。』短い文章がティーザに伝えられたのは、友人達と旅行の記念に街で買い物をたくさんして、先生に時間を過ぎていますと、叱られるくらい買い物をしてからのことだった。
先生達が血相を変えて、ティーザを街に探しに出ていて、もし、先生達に出会わなかったら、言うことを聞かずにもっと外に出ていたかもしれなかった。
「お父様が事故に遭われたそうですよ、急いでお帰りなさい。わたしも一緒に行きますから。」
国語の先生と一緒に、ティーザは汽車に飛び乗って帰った。一睡もせずに荷物を詰め込んだ。入りきらない物は、みんな友達にあげて、でも、父へのお土産だけは何とか鞄に入れて、戻って帰ってきたら、バーポ達の方が早くに帰ってきていた。
ティーザが帰ったのは、電報を受けてから三日後のことだった。住んでいる地域は首都から遠く離れている地方のトスガだから、帰るまでに時間がかかってしまった。隣国のロロゼ王国やサリカタ王国の方が近い。だから、外国に行っていたはずの、バーポ達一行の方が一日早く帰り着いていた。
まだ、ティーザは旅装を解いてもいなかった。家に帰ったら、目の前のテーブルの上に、少し大きな陶器製の壺が置かれていた。蓋がついていて綺麗な色彩で彩られている。
「…どういうことですか?」
ティーザの声は震えた。なまじ父から、サリカタ王国の風習を聞いていたから、なんとなく分かってしまった。
(…そ、そんなわけ、ない。絶対に違う…!絶対に、違う!)
ティーザは心の中で必死に否定した。
「さっきも話したが、ボイグさんは事故で亡くなった。急なできごとで、私達も非常に驚いているし、とても悲しい。ボイグさんは私にとっても大切な相棒だし、兄のような人だった。」
「…う…嘘よ……嘘よ!あなたが、殺したんでしょ!父さまが邪魔だったんでしょ…!」
「お嬢様!!」
ティーザがバーポに怒鳴ると、珍しくベラが大声を出してティーザを諫めた。
「いいんだ、ベラ。ティーザはまだ、混乱している。現実を受け入れるのは、とても難しい。」
「…じゃあ、なんで、なんで、火葬されて、骨だけで帰ってくるのよ…!やましいことがあるから、さっさと骨にしてしまいたかったんでしょ…!」
知っているくせに、ティーザはわざと叫んだ。本当は、知っているくせに。認めたくなかった。
父が死んだと。
「ティーザ、サリカタ王国では、火葬が義務づけられている。」
「父さまは外国人よ…!特例があってもいいじゃない…!なんで、そのまま連れて帰って来なかったの!お金があるんだから、それくらい、お金を払って、そうしてくれれば良かったじゃない…!父さまだったら、他の人が亡くなったら、きっと、そうしてた…!」
ティーザは喚いた。
「…ティーザ。私だってそうしたかった。でも、特例は認められないんだ。異常な痕跡、例えば、殺された可能性があるとか、そんな状況でない限りは、亡くなったら火葬するように決まっている。
遺体をそのまま安置していい期間が決まっていて、その期間を過ぎれば、たとえ親族が集まりきってなくても、葬儀を行って火葬しなくてはならない。サリカタ王国では、衛生基準がとても厳しい。」
ティーザは冷静に言われて黙り込んだ。最近、ずっと共同経営者のバーポと父のボイグは不仲だった。会社の経営のことで、方針が違っていたのだ。だが、父よりもバーポの方が立場が上だ。会社の社長をボイグは、バーポに譲った。自分は仕入れや営業の方が得意だから、副社長でいいと笑っていた。バーポは財務や経営のことを主に担当してきた。
少し塞ぎ込んでいる様子の父を見るたびに、バーポのせいだとティーザは思い込んだ。父の生前から、父より年下のバーポが偉そうだと文句を言うと、たしなめられた。
本当はもっと、あなたのせいだと言いたかった。そして、本当はあなたが父を殺した犯人だと言いたかった。本当は会社だって、ボイグの後を継いで経営したかった。でも、ボイグに、お前は全く経営が向いてない、と言われていた。『それじゃあ、あっという間に破綻だ。』そんなことを言って笑っていた。
泣きたいのに、涙が出て来ない。
「本当に…父さまは亡くなったの?だって…信じられない…!」
分かっている。バーポのせいにしようとしているのは。本当は自分が悪い。ボイグが出かける前、ティーザは女学校の旅行には行かないことになっていた。いつもだったら行っておいで、という父が珍しく反対したのだ。
「ティーザ、すまないが、今回の女学校の旅行は行かないで欲しい。家にいて欲しい。」
「ええ、なぜなの?」
ティーザが文句を言うと、ボイグは優しくティーザの頭を撫でてくれた。
「ごめんよ、その代わり、今度はティーザ、お前も一緒にサリカタ王国に仕入れに行こう。今回の旅から帰ったら、お前に話さなくてはならないことがある。だから、すぐに出かけられるように準備をしていなさい。」
そう言われていたのに、父が帰ってくる前までに家にいればいいと思ったのだ。実際に本当の旅程だと、十分に時間はあった。女学校の旅行に行って帰ってから、父のボイグが帰ってくるまでに十日以上の余裕があったはずなのだ。実際にティーザが家に帰ったこの日、ウーカにいた女学校の同級生達は、家路についたはずで、今頃、汽車の中にいるだろう。
約束を破って、ベラにも反対されたのに、大丈夫よと言って、勝手に旅行に行った。自分が悪い。バーポのせいじゃない。彼は本当にとんぼ帰りをしたのだ。
「申し訳ない。私達も火葬される寸前に、ボイグさんが運ばれた病院に駆けつけ、そこで火葬場を教えて貰って、急いで行ったという次第だったから。」
何回目かの説明をバーポは繰り返している。
ボイグは冬の凍結した橋の上で転倒し、橋の欄干に激しく頭部を強打。打ち所が悪くてそのまま意識を失い、倒れた。人通りが少ない場所だったため、発見されるまでに時間がかかり、通行人が見つけたときは体に雪が積もっていたという。急ぎ、病院に運ばれたが、すでに亡くなっていた。解剖もされたが、事件性はないと判断。そして、そのまま病院の霊安室に安置された。
ボイグを探してバーポ達はあちこち走り回り、ようやく病院を見つけ、駆けつけた時には火葬しなくてはならない期間になったとして、火葬場へ運ばれた後だった。慌てて火葬場へ走り、ようやく火葬される寸前に、棺の中のボイグと対面したという。
「…夢でも見ているのかと思った。はっきり言って、今でも信じられない。ボイグさんが…こんな風に亡くなってしまうなんて…。」
バーポが途方にくれたように呟いた。
「こんなに…あっという間に逝ってしまうなんて。信じられない…。」
骨壺を見つめながら、バーポが言った。その表情からは本当に、父のボイグの死を悲しんでいるようにしか見えなかった。本当に途方に暮れているように見える。
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