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「…ところで、お嬢様。お金はいくらほど、残りましたか?」
突然、ベラの声がして、ティーザは我に返った。
「…え?」
聞き違いかと思って、ベラの顔を見つめる。
「…どういう…意味?」
「こんな時になんですが…本当はゴス家はお金がないのです。」
「え?」
ベラの告白に頭がついていかない。
「旦那様は帰ったら、きちんと話すと仰っていましたし、帰ってから何もかもちゃんとするからと言われていましたが…。お亡くなりになってしまいました。ですから、わたしが申し上げますが、実は、わたしに支払うお給金もこの二月ほど滞っております。」
ティーザは青ざめた。頭を金槌で打ち付けられたような気がした。生まれてからこの方、お金に困ったことは一度もなかった。父のボイグが旅行に行かないでくれ、と言った本当の理由…。
それは、お金がなかったからではないのか。ベラも珍しく激しく反対した。それなのに、ベラを出し抜いて、買い物に彼女が行っている間に、家を抜け出して旅行に行ったのだ。お金はあった。いつも、ティーザが父の留守中に困らないように、置いていってくれるお金がある。それを全部持っていったのだ。
今、ベラはそれがいくら残ったのか、聞いている。
「…ない…。あ…ありません。…ぜ、全部…全部、使って…しまいました。」
ティーザは消え入りそうな声で答えた。唇が震える。旅行に行かなかったら、学友達に意地悪をされる。彼女たちが望む物を買わなかったら、どんなことを言われるか分からない。ティーザは学校でいじめられていた。ゴス家は別に有閑階級ではない。普通の平民が稼いで、少しお金持ちになっただけだ。
ティーザは学校で馬鹿にされるのが嫌で…父ボイグのことを馬鹿にされるから…。そして、サリカタ王国のことを少しでも良く言うと、愛国心が足りないと街の裁判官の娘が父親に言いつけて、罰金を支払わせるから、だから、お金を持っていって、彼女たちが望む物をいつも買っていた。
『お財布を忘れてしまいましたわ。』『…じゃあ、わたしが立て替えといてあげる。』『いつも、ごめんなさい。助かるわ。』しらじらしい演技で、わざとらしい口調で言っているのに、ティーザは何も言い返さなかった。一回もお金を返して貰ったことはない。
「…全部ないんですか?」
ベラの声が震えた。
「…あれは…わたしのお給金だったのです。旦那様がどうしても、と仰るから…。仕方なく折れたのです。貯金でこの二ヶ月は乗り切りましたが、あれがないとわたしが困ります…!息子のために今日、支払わないと…!お薬代を支払わないと、息子は死んでしまいます…!お嬢様もわたしの息子が重篤な病だとご存じでしょう…!?」
ベラの聞いたことがないほどの切羽詰まった声に、ティーザは後ずさった。ベラの息子が病気だとは知っていた。でも、全然気にしたことがなかった。ベラは幼い頃からいるので、彼女がいないと落ち着かず、彼女が何かの理由でいないと、他の女中に言いつけて家に呼びに行かせたりしていた。
もしかしたら、病気の息子の容態が悪くて、家に帰っていたのかもしれないと、今頃になってようやくティーザは気がついた。
「ベラ、落ち着いてくれ。あなたには必ず給金を支払う。昨日、私の家屋敷を売った。いい物件だったから、高く売れた。明日、銀行で支払われる。どうにか、明日まで待ってくるように、薬だけ先に貰えるよう、一緒に後で先生に頼みに行こう。」
バーポがベラを宥めた。
「ルルー様、申し訳ありません。ありがとうございます。」
ベラは涙を拭いた。
「ティーザ、こんな時に本当に申し訳ないが、この家を売らせてくれ。今、言ったようにお金がない。」
「ルルー様、こちらが旦那様がご用意されていた、売買契約書です。」
ベラが引き出しの中から、一枚の紙を持ってきた。
「ティーザ、確認してくれ。ボイグさんの字で間違いないね?」
紙切れに父が名前をサインしてあった。
「…うそよ…だって、この家は…父さまが私の家だって…わたしのために建てたって…父さまが売るわけない…。」
ティーザのつぶやきにバーポとベラが顔を見合わせた。
「お嬢様。旦那様はお出かけなさる前に、これを準備なさっておいででした。」
「嘘よ…。信じられない…!本当にお金がないの…!?バーポさんが経営担当なんでしょ…!だったら、バーポさんの経営の仕方が悪いから、お金が足りないんじゃない!」
ティーザが叫ぶと、頬に衝撃があった。生まれて初めて、ベラに頬を叩かれた。思わず頬を抑えて息を呑み、ベラを見つめた。
「お嬢様…!そこまで仰るなら、言わせて頂きますが…!」
「ベラ、落ち着きなさい!まだ、ティーザは子どもだ…!」
バーポが宥めようとしたが、ベラは止まらなかった。
「そうやって、子ども扱いし続けてどうなったんですか…!たかられているのに、それをやめることもできず、お金が無尽蔵に出て来るかのように使い続けて、結局、ゴス家の財産を食い潰したんですよ…!
旦那様は、口では潔白な経営をと言いながら、娘のために会社のお金を使い、娘のために使用人の給料を滞らせるお人でした…!」
さっきまで、バーポに対してボイグを殺したと思って、怒りで頭に血が上っていた。だが、今はベラの言葉で逆に頭の血が引いていた。
「…ど、どういうこと?どういう…意味なの?」
はっとしたベラが気まずそうにした。
「…お嬢様。申し訳ありません。ですが、本当のことなのです。旦那様は今回の仕入れが終わったら、帰ってきてお嬢様にこのことをお話しするつもりだと仰っておられました。家を手放さなくてはならないと。このことを伝えるつもりだったのです。」
初めて、ティーザの両目に涙が浮かんだ。何も知らなかった。何一つ知らないで、みんなに迷惑をかけているのに、偉そうなことばかり言って、バーポに対しても尊大な態度をとっていた。
何より、自分が財産を食い潰したとベラは言った。ティーザ自身が財産を食い潰していた。しかも、お金のことでバーポと対立していたのは、娘のためにしばらく貸して欲しいとか、そういうことのために対立していた様子が見えてくる。
信じたくなかった。父のボイグが悪いことをしているはずがなくて、悪いことは全部バーポのせいだと思っていたくて。だって、ボイグの夢だったと知っているから。この会社をするのが、父の夢だったから。隣国ともっと仲良くできるはずだって、その第一歩がこのお店だって、言ってたから。ティーザが幼い頃から、嬉しそうに語っていたから。
「…わたしの…せいなの?わたしの…せいで…わたしのせいで……。わたしのせいで!わたしのせいで、とうさまは会社を…破産寸前に追い込んだの!?」
「お嬢様、そうではありません。会社の経営が急に悪化したのは、国の税金が急に上げられることになったからです。もし、そうでなければ間に合うはずでした。旦那様の計画で間に合うはずだったのです。」
ベラの言葉も風のように通り過ぎていく感じがした。
「…あの。」
もう一人の女中が困り切った顔で、部屋の戸口にやってきた。
「お嬢様のご友人のレイラさまがおいでに…。どうなさいますか?」
レイラの名前を聞いて、ティーザははっとした。この間、会った時に激しく喧嘩したのだ。今、こんな時になんで来るんだろう。今は会う余裕なんてない。
「帰してちょうだい。会えないもの。」
ティーザが言い終わった時には、すでに後ろに人の気配がしていた。ティーザが振り返ると、案の定、レイラが立っている。
「このたびはご愁傷様でした。お父様のボイグ様がお亡くなりになったと聞き、弔問にお伺い致しました。」
人が変わったみたいに丁寧で、他人行儀な物言いで言うと頭を下げた。
「……れ、レイラ?」
「レイラ、ありがとう。お父君のダル博士に、くれぐれもよろしくお伝えして欲しい。」
呆然としているティーザの代わりに、バーポが答える。レイラが父に伝えておきます、とか答えていた。
そして、難しい顔のまま、ティーザを睨みつけた。
「行くわよ。さっさと来るの。」
「…行くってどこに?今、わたしは、父さまが亡くなって、それどころじゃないの!レイラと喧嘩の続きなんかしてられないし、そんな気分でもないもの…!一人になりたいの!一人になって、しばらく考えたいの!」
レイラが叫んだティーザの前に来たかと思うと、いきなり、頬を叩かれた。今日、二回目だ。ベラより痛かった。
「何、甘ったれたことを言ってんのよ!行くのは喪服の準備に行くのよ!あんた、喪服なんて持ってないでしょうが!そして、一人になって何をするのよ!悲劇のヒロインぶってる場合じゃない!」
「悲劇のヒロインって…!」
あまりにもひどすぎる。抗議しようとしたティーザに、レイラはびしっと指を突きつけた。
「あんたが、今することは、何なの!?分かってるの?あんた、今すぐこの家屋敷を売らないとどうなるか、分かってんの!?もし、あんたが家を売らなかったら、あんたが、お父さんの会社にとどめを刺すことになるの!分かってんの!」
「……なんで?」
なんで、我が家の状況を知っているのだろう?
「なんで、あんたが知ってるの?うちの状況を?」
「あんた、馬鹿じゃない?街中の噂よ。ルルー=ゴス商会が潰れるって、街中の噂なのよ。何も知らないのは、あんただけ!言ったでしょ、あんたが旅行に行く前に。絶対に行ったらだめだって!それなのに、あんたは行った!
あの子達だって知ってるのよ!会社が危ないって知ってて、あんたにたかって、貴重なお金を使わさせた…!あんな連中と付き合ったら、根性が腐るって言ったでしょうが!言うことを聞かないからよ!」
ティーザはショックを受けた。さすがにショックだった。知っていたのに、分かっていたのに、無理矢理ティーザに旅行に行こうと誘ってきて。お金のためだけに、そんなことをさせて。
「……お…お金を取り返してくる。」
「無理よ…!自分で勝手に払ったと言われておしまいだわ。」
「でも、で、でも、それじゃ、わたしがわたしのせいで…お店が…。」
「だから、家を売るのよ。売りなさい。早く。一秒でも早く!今ならまだ、銀行が開いてる!早くしなさい!」
レイラに急かされて、ティーザは混乱して焦った。
「でも、わたし、どうしたらいいのか、分かんない!」
「だから、ルルーさんに頼むんでしょうが!馬鹿ね!」
勝手にバーポに恨みを抱いていたティーザは、決まり悪くてうつむいた。
「あんたの誇りなんかゴミ屑と同然よ。ないも同然だから、さっさと頭を下げなさい。」
レイラは博学だ。お父さんが高名な博士で、王様からいくつも勲章を頂いている。お兄さんも若くして博士になっていて、蒸気機関の研究所の所長になっている。だから、レイラといると、自分の無知を見せつけられる気がして、嫌気が差して、だから、どんなに忠告されても、苦しくても、嫌でも、誇りを踏みにじられても、毎日こっそり泣いても、女学校に通っていた。
でも、自分のそんな愚かさのせいで、ゴス家の財産を食い潰して、倒産寸前に追い込んでしまって…レイラの言うとおり、ティーザの誇りなんて、ゴミみたいなものだ。小さくてみみっちくて、自分だって分かっている、大したことじゃないって。
それでも、勇気が必要だった。ようやくティーザは涙ながらに、バーポに向き直った。
「…ごめんなさい。バーポさん、ごめんなさい。わたし、勝手にバーポさんが会社の経営を苦しくしてるんだって、思い込んでた。父さまが大変なのは、バーポさんのせいだって、わたしのせいだったのに、人のせいにしていました。ごめんなさい。
だから、どうか、父さまが大切にしていた、宝物を守って下さい。父さまの会社を助けて下さい。家を売るしかないなら、家を売って下さい。お願いします。わたしには、どうしたらいいのか、何も分からないから……!」
最後には泣きながら叫ぶと、優しく力強い手がティーザの肩に置かれた。
「分かっているよ、ティーザ。そして、ありがとう。君がこの家を売るのにどれほどの決断がいるか、私には分かっているつもりだ。だから、その決心をしてくれてありがとう。必ず、この会社を救ってみせる。」
「早く手続きをしなくては。」
バーポの右腕のシャンズ・パンが言った。彼はよくバーポの代わりに父のボイグと一緒に、外国まで行く人だ。
「お嬢様。」
ベラが優しくハンカチを差し出してくれた。
「ベラ。ごめんなさい。いつも、迷惑ばかりかけて。余計なことばっかりして、心配をかけて。息子さんが病気なのに、わたしのことを優先して、なんでもしてくれた。ごめんなさい。」
すると、ベラがぎゅっと抱きしめて背中をさすってくれた。
「お嬢様…。ようやっと、昔のお嬢様に戻られましたね。」
「…え?」
「お嬢様は本当はとても、優しい方だと知っています。女学校に行かれるようになってから、お嬢様は変わってしまいました。いつか、目覚めて下さると待っていたのです。でも…もっと早くに手を打つべきでした。
わたしが、実の娘のように厳しくしていれば、お嬢様はこんなに、なることはなかった。申し訳ありません、お嬢様。」
ベラの優しさが胸に染みて、ティーザはベラの胸でむせび泣いた。
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