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灼熱の夏
「おかーさん! これ、柔軟剤変えたでしょ!!」
あたしはリビングに飛びこむと、キッチンでプラスチックごみをまとめているお母さんにむかって、学校指定のジャージを突きつけた。
「ピーチの匂いが好きだったのに……」
くちびるを尖らせるあたしを、お母さんがじとっとした目つきで睨み返してくる。
「しょうがないでしょ、売ってなかったんだから。……っていうか、縫、あんたねえ。そんなこと言って、小学生のときからずーっと同じのしか使わせてくれないじゃない。私だって飽きるのよ。たまには変えたっていいでしょ?」
「ぶう……」
「膨れてもダメ。くだらないこと言ってないで、とっとと朝ごはん食べちゃいなさい。出て行くとき、ゴミ出しもよろしくね」
取りつく島もない。あたしはしぶしぶ引き下がることにした。
どうせお母さんには、洗いたてのジャージに顔をうずめてピーチの香りを胸いっぱいに吸いこむときの、あのほっとする気持ちはわからないのだ。
どんぶりいっぱいのごはんに、生卵をふたつ。そしてお醤油をひとたらし。かき混ぜて作った卵かけごはんを、めかぶとキノコいっぱいのお味噌汁と一緒にカッこむ。深皿に山盛り積んだキャベツの千切りとソーセージ、デザートにバナナ。
朝ごはんは大事だ。なにせバレー部の朝練はメチャクチャ厳しいから、エネルギーを補給しておかないと倒れてしまう。県大会までもう一週間を切っているうえ、ちかごろ殺人的な暑さが続いているときたら、なおさらだ。
テレビに目を向けると、ローカル局のキャスターがめっきり水位の減った果南ダムの前に立ち、水不足から来る給水制限は避けられなさそうですと話していた。
あたしは家を飛び出すと、生ゴミの袋をオーバーパスで向かいの集積所にぶちこんだ。ひらりと自転車にまたがり、全速前進。つづら折りの坂道をくだってゆく。高い位置でくくったポニーテールが、ハンドルを切るたびぶんぶん揺れた。
まだ朝も早いのに、空では七月の太陽が真っ白に焼けている。おかげで、あたしはあっという間に汗だくになった。セルリアンブルーの空には雲ひとつない。
アスファルトから立ちのぼる陽炎の向こうで、あたしが暮らす果西の街が揺らめいている。
果西市は田舎だ。
みかん畑の広がる山々に抱きかかえられるようにして、スーパーマーケットやアパートがごちゃごちゃ密集している。あたしの家があるのは、そんな街の中心部から少し離れた、小高い丘の中腹だった。
坂道の左手にはコンクリートで板チョコみたいな形に固められた法面が続き、右手には戸建ての家がちらほら現れては消えていく。
やがてカーブの向こうに、くすんだ赤い屋根の家が見えてきた。
菅生さんの家だ。
太陽の照り返しでどこもかしこもギラギラ光って見える中、そこだけが、暗い陰に沈んでいるように見えた。
あたしは自分でも意識しないままにゆるゆるとブレーキをかけると、菅生家の前に自転車を停めた。
黒い鉄の門。
その向こうに広がる庭は、たった三ヶ月放置されただけで、青々とした雑草にすっかり覆われてしまっている。緑の海の中、小島みたいに浮かんでいるのはポテトチップスの袋やビールの空き缶だ。肝試しに来た人達が捨てていったに違いない。
例の事件があってからというもの、ここはすっかり心霊スポットになってしまった。
今年の四月。この家に住む上の娘(十歳)が、自分の妹(七歳)をバールで殴って殺した。その、死んだ妹の幽霊がここに出るという。
あたしは正直、事件のことをよく知らない。
近所といっても菅生さんの家とはなんのつきあいもなかったし(学年が違いすぎて、子供会なんかの接点もなかった)、お母さんたちに聞いても「子供は知らなくていいの」の一点張りでなにも教えてくれないからだ。
プライバシーに配慮してか、事件のことがテレビで報道されることもなかった。しばらくはローカルニュースの記者だかなんだかがウロウロしていて、あたしも一度だけ捕まったけれど、こっちがなにも知らないとわかると興味をなくして帰っていった。結局、あたしの耳に入ってくるのは、小中学生が流すビミョーにうさんくさい噂ばかりだ。
姉は妹を殺して食べようとしたんだとか、いや、妹のほうが先に姉を殺そうとして返り討ちにあったんだとか、いやいや一家ぐるみで新興宗教にハマっていたんだとか、みんな好き勝手にバラバラなことを言っているだけ。
ただ。それでも。
ここでなにかがあった。それだけは、確かなんだと思う。実際、その騒ぎが起こってすぐ、菅生さん一家は逃げるようにどこかへ引っ越していってしまった。
下の娘の幽霊だけを、この家に残して……。
(……ほんと、なにがあったんだろ)
あたしには兄弟姉妹がいないから、バールで妹の頭をカチ割りたくなる姉の気持ちというのはわからない(いや、兄弟姉妹がいたからって普通はわからないだろうと思うけれど。そう思いたいけれど)。
そもそも、誰かを殺したい、なんて。
そこまで他人を憎む理由なんて本当にあるんだろうか。そりゃああたしにだって、嫌いなヤツのひとりやふたりはいるけど、さすがに殺したいほどじゃない。
と、そんなことを考えた、まさにその瞬間。
あたしの嫌いなヤツ筆頭が、キューッという自転車のブレーキ音とともに現れたのだった。
「……なにやってんのよ、こんなとこで。暑さで頭ボケちゃった?」
開口一番、こんな失礼な言葉をぶつけてくる知り合いはひとりしかいない。だからあたしは、振り向く前からそいつが誰なのかわかっていた。
「……峰子」
瀧峰子。
背はあたしと同じくらいだけど、全体的にひょろっと細長い。
ツリあがった猫目に、オシャレぶった丸眼鏡。ショートボブの毛先にゆるいパーマをかけているのは、同じバスケ部の東山初音先輩をマネしているのが見え見えだ。
あたしと峰子は同い年で、家も近所にある。いわゆる幼馴染というやつだ。
実際、幼稚園のころはいつも一緒に遊んでいた。夜勤ばかりで昼夜逆転しているお父さんなんかよりも、峰子といる時間のほうがずっと長かったくらいだ。
でも小学校低学年のときに、理由は忘れてしまったけど大喧嘩をして、それからはメチャクチャ仲が悪くなった。
なまじ顔を合わせる機会が多いだけに、お互いの気に食わないところがよく目につくのだ。峰子はあたしのことをガサツだとか脳筋だとか野蛮人だとか言ってバカにしているし、こっちは峰子のスカした都会っ子気取りなところ(あたしと同じ田舎生まれ田舎育ちのくせに)が鼻についてしょうがない。
そんなわけで、普段はお互い、相手が視界に入っても見て見ぬフリをするようにしている。あたしも峰子も、そのほうが嫌な思いをせずにすむからだ。
……なのに、なんで今日に限って話しかけてきたりしたんだコイツ。
「わかってないみたいだから教えてあげるけど」
と、峰子は中指でメガネの位置を直しながら言った。こういう細かい仕草がいちいちムカツク。
「バレー部の朝練だったら、今日は休みよ。体育館、私たちが使うんだもの」
「バスケ部が? ウソぉ」
峰子たち女子バスケ部は練習をまじめにやらないことに定評があり、これまで一度として朝練なんてやったことはない。
「そもそもあんたたち、地区大会一回戦敗退じゃん。なんの練習よ」
「敗退したから、うちの三年は一学期いっぱいで引退なの。それで二中のバスケ部と引退試合することになったのよ。最後の試合くらい、初音先輩に勝たせてあげたいじゃない」
ははあ、そういうことか。
大会記録には興味なくても、カリスマの初音先輩にはええかっこ見せたいというわけだ。確かに、バスケ部員どもなら言い出しかねない。
あたしがひとりで納得していると、峰子がいらいらしたふうに言った。
「チカちゃん……近見先生があんたんとこの顧問にお願いして、今朝だけ体育館、譲ってもらったの。……本当に、なにも連絡行ってない?」
「……知らない」
レギュラーのあたしが知らないということは、たぶん他のバレー部員も聞いてないだろう。
なんだかトラブルのにおいがした。
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