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Garden Spirits
ロンは階段を全力で駆け上がっていた。呼吸が荒くなる。気持ちだけがはやるばかりで足は重い。
(くそっ。アルフ、無事でいてくれよ!)
ビルの屋上では、夜風が吹き荒ぶなかを細身で長身の端正な顔立ちをした男が一人、虚な目をしおぼつかない足取りで端へ向かって歩いていた。
屋上のドアが勢いよく開かれ、一人の男が転がるように飛び出した。彼は肩で息をしながら素早く周囲を見渡し、長身の男を見つけると叫んだ。
「アルフ!」
呼びかけても止まらずふらふらと端へ向かい続ける姿に、男は叫びながら駆け出した。
「アルフ! とまれ! アルフ!」
長身の男がフチに足をかけた。グッと体重が乗る。
「アルフ……!」
叫びが夜闇に木霊した。
常夏の国タイの首都バンコク。そのとある家に、けたたましいベルの音が鳴り響いた。午前6時。未だ窓の外は暗い。うっすらと黒い無精髭を生やし、甘く端正な顔立ちの男は気怠げにその筋肉質な腕を伸ばした。ベルの音がやむ。が、男は一向に起きる気配を見せない。伸ばした腕をベルに乗せたまま、意識は夢の彼方である。
程なくして、今度は木琴のような音が流れ始めた。先程の音源とは反対方向である。男はもう一方の腕を伸ばし、器用に音を止めた。寝息はまだ安定している。
また程なくして、今度は陽気なバンジョーが鳴り響いた。今度は正面である。腕を伸ばしても止まらない。男は眉間に皺を寄せて唸った。そして目を閉じたまま、のっそりと起き上がる。それでも届かない位置にあることを、男は知っている。知っているが、動かずその場で首を垂れている。
コンコンと扉を叩く音がして、細身で長身の青年が扉を開いた。外出着の上にエプロンを身につけ右手にフライ返しを持った彼は、真ん中で分け整えた薄茶色の髪を崩さないように頭をかがめて部屋に入り、柔らかな笑みを浮かべてベッドに近づいた。
「ロンさん、朝ご飯できたよ。起きて?」
長身の青年は歌い続けている目覚ましを左手で止めると、ベッドで首を垂れている男の顔を覗き込んだ。
「うーん」
ロンは唸りながら、うっすらと目を開く。
「おはよう、ロンさん」
人懐こい笑みを浮かべた長身の青年がロンの目に映った。ロンはふっと微笑み、少し掠れた低い声で返事を返した。
「……おはよう、アルフ」
アルフはにっこり頷くと、早く着替えてきてねと言い置き、頭をかがめて部屋を出て行く。その細身ながらも大きな背中をロンはぼうっと見送り、頭を掻いた。寝癖のついた黒髪がロンの顔にへにょりと落ちた。
同じ頃、別の家では体格のいい男が鍋をかき混ぜていた。鍋からは湯気が立ち上り、美味しそうな香りがあたりに立ち込めている。
男の名はジオという。彼はその名にふさわしくがっしりとした体格に、しっかりとした眉が印象的だがバランスの整った顔立ちで、どこか犬のような優しくも凛とした雰囲気のある青年だ。少しクセのあるやや茶色がかった黒髪を爽やかなイメージでセットし、焦げ茶色の瞳が穏やかで優しげな印象を加えている。
小柄な青年が、キッチンにひょこっと顔を覗かせた。ジオはその気配に出口へ振り向く。
「おはよう、アース」
「おはよう、兄ちゃん」
少し舌足らずな発音で挨拶をしたアースは、とてとてと兄の元へ近づいた。目が大きく小柄なのも相まって彼は年齢より低く見られることが多いが、これでも高校生である。一月ほど前、アースは高校に通うため、実家を出てバンコクで暮らすジオの元で暮らしはじめたのだった。
「今日の朝ごはんはこれかあ。僕、これ好きなんだよねえ。ありがとね、兄ちゃん」
矯正装置をつけているアースため、このところジオは比較的食べやすいスープを作っていた。にっこり笑うアースの髪を、ジオはぽんぽんと撫でた。
「ああー! 頭は触らないでよお! それにせっかくセットしたのに!」
口では文句を言いながらも、嬉しそうに笑う声がキッチンに響いた。
バンコクのとある喫茶店「Garden Spirits」。白と緑を基調としボタニカルなイメージで統一されたひっそりと佇む一軒家のその店が、ジオとロンの職場だ。
午前7時。ジオは店のドアを開け、札を裏返した。OPENだ。
数分後、一人の老人が来店したのを皮切りに通勤客らが次々にタンブラーを片手にやってくる。そうして開店から30分と経たないうちに、一人の上品な老婦人がいつものように来店した。彼女はそのまま注文カウンターへ向かってくる。
「いらっしゃいませ」
ジオは爽やかに挨拶し、メニューを渡した。この老婦人は毎回、メニューを見て注文を決めるからだ。老婦人はしばらくメニューを眺めた後、ジオを見上げて穏やかに優しく微笑んだ。
「今日はモーニングAセットをひとつ、ブレンドでお願い」
「かしこまりました。お席にお持ちしますので、おかけになってお待ちください」
「ありがとう」
基本的に店内利用の場合もカウンターで商品を渡すのだが、顔見知りの常連客やフードを注文している場合は席で待っていてもらったほうがいい。朝は基本的に通勤前にテイクアウトして行く客が多く、店内に比較的余裕がありカウンター前の混雑を軽減できるからだ。
「モーニングセットAを一つ」
ジオは厨房にいるグレンとロンに声をかけ、オーダー表をクリップで止めた。カウンターに戻り、ブレンドを淹れ始める。その間、カウンターでオーダを受けるのは店長のディーンだ。
ディーンは好々爺然とした青年だ。善意と優しさに溢れた温かい雰囲気で、中肉中背。あまり目立つ容姿ではないが、その穏やかな雰囲気は来る者を癒していた。
ジオとディーンは手分けして注文をとり、ドリンクを作って客へ渡す。フードは調理担当のグレンとロンへ口頭とオーダー表で伝える。そうこうしているうちに、モーニングセット用のプレートが厨房の受け渡し口に置かれる。出来上がったフードやセットを客席へ運ぶのは主にジオの役目だ。ジオはプレートとブレンドコーヒーをトレイにセットした。
「ディーン、オーダー頼む」
「うん」
頷くディーンと視線を交わし、ジオは出来上がったモーニングセットを持って老婦人の元へ向かった。
「お待たせいたしました」
ジオがトレイを机にゆっくりと滑らし会釈すると、老婦人は目を合わせて穏やかに微笑んだ。
「ありがとう」
「ごゆっくりお過ごしください。失礼します」
ジオが頭を下げると、老婦人は再度会釈してカトラリーを手に取った。
ジオがカウンターへ戻ると、ちょうど客が途切れたところだった。フードの注文が途切れて手持ち無沙汰になったグレンがカウンターへ出てきた。
「あのおばあさん、いつもほんとに美味しそうに食べてくれるよな。俺、好きなんだよね。あの人が食べてるの見るの」
グレンはジオの学生時代からの友人だ。身長や体格はジオと同じくらいで黒髪の短髪にそこそこ整った顔立ちだが、どこか飄々とした雰囲気の男だ。接客も何なくこなせるが、料理の腕が良いためキッチンにいることの方が多い。たまに客が途切れると、こうやってカウンターに出てきては店内を観察している。売り物のコーヒーをこっそり飲みながら。
「あ! グレン、またコーヒー飲んで……。全く。給料から引くからね、それ」
店長のディーンが眉を顰めて注意するが、グレンはどこ吹く風である。
「ちぇ、バレたか。ちょっとぐらいいいだろ、減るもんじゃなし」
「「減る」」
ディーンとジオが同時に突っ込むと、グレンはちょっと面白くなさそうな顔をした。ディーンにツケといてと口を尖らせる。
「おい、グレン。ピークの準備まだ終わってないだろ。サボるな」
厨房の受け渡し口から、ロンの厳しい声が飛んできた。
「へいへい」
グレンは肩をすくめるとコーヒーを飲み干し、厨房へと戻っていく。ディーンとジオはやれやれと顔を見合わせたのだった。
午後3時。ピークを過ぎたものの、店内は大学生や子連れの保護者などでそこそこ賑わっている。
「あの、すみません」
店内が賑わう中、ジオと一緒に写真をという客は多い。ピークの時間は断っているが、アフタヌーンティーの時間は店員との写真撮影も可能となっている。若い女性客に声をかけられたジオは、手慣れた様子でカメラに収まった。
喜ぶ客に、ジオは笑顔で茶目っ気たっぷりにSNSでの宣伝を呼びかけ、カウンターへ戻る。
「ジオはだいぶ慣れてきたよね。ああいうのに」
ディーンがしみじみと呟くと、グレンが茶々を入れた。
「始めた頃は右手と右足が同時に出てたもんな。しょっちゅう机に当たってはこけかけたり」
「言うな。恥ずかしい」
ジオが眉を下げると、ディーンとグレンは笑って首を振った。
「こんにちは。がーでんすぴりっつ? はこちらでお間違い無いですか?」
配達員がカウンターにやってきて、ディーンは応対を始めた。
「アフタヌーンティーセット、できたぞ……」
ロンは厨房の受け渡し口からカウンターを覗き、ため息をついた。ジオとグレンは客に呼ばれカウンターを離れている。ディーンは配達員への対応をしている。初めはジオたちが戻ってくるのを待っていたロンだったが、冷めてしまうのももったいない。2、3分待っても戻ってこなかったため、仕方なくロンは客席へ出ることにした。
「お待たせいたしました」
セットを乗せたワゴンを押してきたロンの姿と載っている品々に、ジオやグレンと写真を撮っていた女性客の集団が黄色い声を上げた。押しが強く、派手な印象の服装をした集団である。
アフタヌーンティーセットは、最下段にセイボリー、中段に小さめのスコーン、最上段にスイーツがそれぞれ2種類ずつ盛られている。セイボリーは一口サイズに切られたスモークサーモンとディルが挟まったサンドイッチにミニトマトとブロッコリーのセイボリータルト。スコーンはプレーンとにんじんが入ったもの。そしてスイーツが立方体の一口サイズでオレンジのショートケーキとガトーショコラだ。ガトーショコラの上にはラズベリーとミントがクリームの上に載っており、さらに上から粉砂糖が振り掛けられている。
グレンが「なんでお前、きたんだ!」と言わんばかりに引き攣った笑みを浮かべているのを見て、ロンは自分の判断が間違っていたことに気がついた。ホールを捌くのが上手いはずのジオやグレンが捕まって2、3分も戻ってこないなんて本来ありえないことなのである。
ジオの目配せを受けワゴンだけを置いて下がろうとしたロンの腕を客の一人がガシッと掴んだ。その目は爛々と輝いており、ロンは恐怖に慄き一気に顔が強張った。
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