Thai suki

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Thai suki

 それから数日後の夜。ロンは自宅でアルフの帰りを待っていた。今日は久しぶりに撮影が早く終わる予定で、一緒に夕飯を食べる約束をしていたのだ。 「ただいま」  アルフの声が玄関先から聞こえ、ロンは鍋を卓上コンロの上に置いた。廊下と部屋を仕切るドアが開き、アルフが姿を見せる。 「ロンさん、ただいま」 「おかえり」 「うわあ、美味しそうだなあ!」  アルフが目を大きく輝かせ、食卓を見渡した。食卓に並んでいるのはスッキーナーム(注:タイスキのこと。日本でいうしゃぶしゃぶのようなもの)の材料たちだ。卵を潜らせた肉に海老、生イカ、飾り切りをしたニンジン、白菜、緑の葉物野菜、ルークチン(魚のすり身ボール)、そしてナムチム(つけダレ)などが所狭しと並べられている。細い割にはよく食べるアルフだが、太り過ぎないためヘルシーな食事になるよう気を遣っていた。 「早く手を洗ってこい」  そう言ってロンは鍋を火にかける。アルフは目をキラキラさせたまま、大きく頷いた。まるで大型犬のようだ、とロンは手洗い場へ向かっていくアルフの背中を優しく見つめた。  食後、ロンはテーブルをそれぞれ片付けつつアルフに尋ねた。アルフは洗い場に立ち、ロンに背を向けて食器を洗っている。 「なあ、演技教室でマイルドちゃんにすごくアタックしている人がいるって聞いたんだが、どういう人か知ってるか?」  振り返ったアルフは眉を下げていた。 「ロンさん、マイルドちゃんのことが好きなの?」  アルフの姿が、あまりにも耳を垂れてシュンとした大型犬のそれだったため、ロンはふっと笑いを溢した。首を横に振ってロンは否定する。 「違う、違う。実は……」  マイルドの一件について事情を話すと、アルフは元気を取り戻したようだった。尻尾を振っているかのようなご機嫌モードに切り替わり、皿洗いに戻る。ロンはわかりやすい同居人を微笑ましく見つめた。  アルフは記憶をたどりながら話し始めた。 「たぶんだけど……最近よくみるのは、ヨーク先輩かなあ。ちょっと小太りでね、背はロンさんよりちょっと小さいくらいかな。丸い顔が可愛い先輩だよ。演技がとっても上手だし、何より振る舞いがチャーミングなんだ。みんなをいつも楽しませてくれる人だよ。面倒見が良くて、よく一緒についてきてくれるし。そういえばここ最近、ちょっと様子がおかしいかも。なんだかマイルドちゃんばっかり追いかけ回しているというか。前はそんなことなかったはずだけどなあ」 「いつぐらいから変わったか、わかるか?」  うーん、と唸ってアルフは首を傾げた。 「1週間くらい前かな? たぶん」  ロンはアルフの返答に一瞬考える様子を見せ、情報を整理してジオたちと使っている専用のチャットに書き込んだ。ロンが書き込みを終えて顔を上げると、アルフがロンをじっと見つめていた。ロンはアルフを見上げた。 「どうかしたか?」 「えっ……と、なんでもないよ! 課題をやってくるね」  さっと視線を逸らし、アルフはスタスタと荷物を持って寝室へ向かっていく。ロンはその姿を怪訝な顔で見送った。  寝室へ向かったアルフは、ドキドキと脈打つ胸を押さえていた。 (心臓に悪い……! 慣れてたつもりだったけど、本当に心臓に悪い!)  もともと顔立ちが整っているロンだが、考え込む様子や真剣な横顔がアルフのストライクゾーンだった。同居し始めて2年が経つが、いまだに慣れないでいる。  大学に入学が決まってすぐの頃。入居物件を探しにコンドミニアムの管理人室へやってきたアルフは、同じく物件を探しにきていたロンと鉢合わせた。一眼見て、アルフは目を見張った。 (すごいハンサムだ……! でも)  鼻筋はスッと通っており、形のいい目に形のいい唇。芸能人顔負けの整った顔立ちだ。でも、あまり身なりに気を使わないのか、無精髭をすこし生やしていて、髪もブラッシングしかしていないような、お世辞にも整っているとはいえない状態だった。服装は普通の白シャツにベージュのクロップドパンツ。身長は平均身長よりは高いが、190cm近いアルフよりは低い。おそらく、学生時代に一度は芸能界からスカウトを受けたはずだ、もしかしたら同業者かもしれないとアルフは思った。  アルフが見惚れている間に、ロンはさっさと管理人に話を通して、内見の手続きを済ませ始めていた。 「おーい、そこの坊ちゃん。見るんか? 見ないんか?」  管理人に声をかけられて我に帰ったアルフはそのまま、ロンと一緒に内見へ向かうこととなった。  通された部屋は、一人で住むには少し広かった。だが、綺麗で設備も整っている。キッチンも屋内にある。アルフがこのアパートに注目していた理由もキッチンだった。  タイは外食文化が根付いていおり、基本的に都心にはお金持ちが買うような物件や外国人向け物件でもない限りキッチンのない物件が多い。しかもタイ料理は香辛料がきつく匂いがつきやすいためオーナーが嫌がることが多く、自炊はあまりできないか屋外にキッチンがあることもしばしばだ。  しかしアルフは、健康面でもそうだが、母親が料理好きだったこともあり自炊をしたいと考えていた。しかもアルフは芸能人である。セキュリティもしっかりしていた方が良い。その面で、このコンドミニアムは非常に良い物件だった。だがしかし悲しいかな、内見を終えて月々の値段を確認したアルフは、肩を落とすことになる。芸能人として一般の学生よりは稼ぎがあるものの、一人で払える値段ではなかったのだ。  様子を見ていたロンがルームシェアを申し出てきてくれた時、アルフは迷わず飛びついた。一も二もなく承諾するアルフに、ロンが苦笑していたのは言うまでもない。  それから一緒に暮らすようになり、ロンが朝にとても弱いこと、どうやら仕事は喫茶店員だけではなさそうだということをアルフは知った。たまに深夜出かけていって、別に酒の匂いを纏うわけでもタバコの匂いを纏うわけでもなく、どちらかといえば運動してきた後のような汗の匂いを纏って帰ってくる。もちろんその後シャワーを浴びて寝るわけだが、同じベッドで横になっていると、いろいろ筒抜けである。ロンは筋肉もしっかりついており、普段から運動をしていることがわかるのだ。  アルフは一度だけロンにこの部屋に決めた理由を聞いたことがある。返答は至ってシンプルだった。セキュリティがしっかりしているから、だそうだ。バンコクで深夜に一人で出かけられるくらいだからセキュリティがしっかりしていなくても良さそうなものだが、とロンが本当はいったいどんな仕事をしているのか、アルフは今でも疑問に思っているのだった。  翌週の週末。ジオたちは午後から店を臨時休業にして映画館にいた。  ジオの左隣にはマイルドを挟んでロン、さらにアルフが端の座席に座っている。そしてジオの右隣はというと。 「ずごーっ」  音を立ててコーラを飲むヨークがいた。映画を見ながらチラチラと恨みがましげにジオを睨んだり、ポップコーンを食べたりと忙しそうである。そして彼らを見守るため、最後部の座席に陣取った人影が二人。ディーンとグレンだ。 「なんでお前の横にいなきゃならないんだよぉ」  グレンの小さな嘆きは映画館の暗闇に吸収されていく。  なぜこうなったか。事の発端はロンがアルフとタイスキを食べた翌日に起こった。 「アルフとマイルドちゃんが、デートだって?」  グレンの素っ頓狂な声がミーティングスペースに響き渡った。  終業後のミーティングで、ロンがアルフから聞いた話を伝えたのだ。曰く、昨日の雑談中に注目の映画の話になり、先日言っていた猛アタックしてくるヨーク先輩がマイルドを誘った。アルフはいなかったが、ちょうどその場にいた他の人間はこのところヨークがマイルドにお熱であることを知っていて、お節介にも仲を取り持つつもりなのかトントンと話を整えてしまったという。ヨーク以外の他の人間に困っていることを話してもなかなか取り合ってもらえず、さらに学校の友達にも断られ困ったマイルドは、アルフに白羽の矢を立てた。そしてそれを、アルフが了承したということだった。 「……いつなんだ?」  恐る恐る聞いたのはグレンだ。 「来週末の日曜日だ。お昼間13:30にサイアムパラゴンで待ち合わせらしい。新作の恋愛映画を観るんだそうだ」 「アルフなら知り合いだし、ちょうどいいんじゃない?」  そう言ったのはディーンだ。 「俺もそう思ったんだけどな。ちょっと気になることがあって」  ロンに皆の視線が集まる。 「アルフによると、ヨークがマイルドちゃんに熱烈にアピールするようになったのはつい最近のことらしいんだ。それまでは恋愛には自信がなくて、積極的にいくタイプではなかったみたいだ。それに何より、これが気になっていてな」  ロンが取り出したのは、一見どこにでもあるようなぬいぐるみのキーホルダーだった。 「アルフのペンケースについていたんだが、これに低級霊が憑いていた」  昨晩、風呂上がりにソレとリビングで遭遇したロンはすぐに風の精霊を呼んで祓った。そして、見慣れないキーホルダーに気付き、触れて原因がこれだと確信した。 「でも、ぬいぐるみに霊が宿るのなんて割と普通だろ? 拾ってきただけじゃないのか?」  グレンの言葉に、ディーンとジオもうなずく。 「そうだな。だが、これならどうだ……?」  ロンはキーホルダーを裏返した。すでに綿が飛び出しており、その合間に紙が挟まっているのが3人の目に映った。  ロンは紙を取り出すと机に広げる。そこには術式が描かれていた。3人の顔が一気に険しくなる。 「アルフは狙われている」  ロンの低い声が部屋に落ちた。
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