光り

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篠突く雨の音で目が覚めた。 どうやら机に突っ伏したまま眠ってしまったらしい。 時計を見ると午前6時だった。 寒暁の淡い陽の光が差し込む研究室には僕しかおらず、雨音が古びた鉄筋コンクリートの壁を打ち付け、響き渡っていた。 昨日の夜に書きしたためた研究メモは涎で濡れ、滲んで読めなくなっていた。 あーやり直しだ。 いつ終わるのかわからない研究の日々。 今日は日曜日だ。 外の空気でも吸おうと研究室を出ていき、暗い廊下を進む。 突き当たりに差し掛かり、思い鉄の扉を開ける。 開けた瞬間、鋭く地面を突く雨粒が跳ね返り、顔を濡らす。 すごい雨だ。 僕はビニール傘を刺し中庭を歩き、反対側の校舎にある喫煙所に向かった。 跳ね返った雨水がズボンの裾を濡らし、喫煙所に着いた頃にはベージュのチノパンの裾は濃褐色に染め上がっていた。 僕はポケットに入っていたシワクチャのラッキーストライクのソフトケースの中から一本を取り出し、百円ライターで火をつけた。 大きく息を吸い吐くと、頭がクラクラした。 寝起きのタバコはいつも気持ち悪くなる。 それでも、煙を肺に入れる。 タバコ一本で自分の寿命を14分削っているらしい。 最初はせいぜいもらいタバコ程度だったものが、いつの間にか1日に一箱吸うようになっていた。 一箱で48時間の寿命を失う計算。 1日に2日の寿命をかけて、僕は今日も息をしていた。 1本目のタバコを吸い終わり、2本目に手をかけ始めた時、中庭があたたかい“なにか”で包まれる感覚を覚えた。 高揚感の中にも安定した胸の鼓動を打つ僕の体。 冬の雨が暖気を帯びた、夏の晴郎の通り雨のように温かく包む。 ふと中庭を見つめる。 コンクリートの地面に整然と並べられていた植木の合間を女が踊っていた。 真っ直ぐに伸ばした黒髪に、白いワンピースを纏った女が踊っていた。 彼女は自分で口ずさむ歌に合わせ、体を器用に回しながら優雅に踊っていた。 彼女の踊りは、死んだコンクリート・ガーデンに、まるでルノワールの絵画のように、春の彩りと賑やかさを与えていた。 “春のひととき”を終えた彼女は、舞台袖にはけるように日曜日の校舎に入っていく。 今日は研究棟以外空いていないはずなのに、彼女は学校で一番背の高い教室棟に入っていく。 僕はフィルターまで焦げ付いたタバコを灰皿に捨て、彼女を追いかける。 教室棟に手をかけると、扉が開いている。 日曜日の教室はダンマリとしていた。 教授たちの研究費のためにしょうがなしに行う活気のない講義の声は、聞こえなかった。 大学一年生になる、4月の入学式の朝。 全国でも有名な、大学の近くの桜並木を横目に、背筋を伸ばし闊歩し、集合場所と指定された教室に行った。 そして、毎年同じ内容の学部長の挨拶ですら前のめりになって聞いたものだ。 あの時は1日が短かった。 次々にくる日々に苦悶しながらも、刺激的な毎日に明日が来るのが待ちきれなかった。 楽しい日々だった。 しかし、今日は日曜日。 彼女はどこにいったのだろうか。 彼女の声は上から聞こえる。 僕は階段を急いで駆け登る。 吹き抜けを包む長い廊下に出た。 やはり日曜日の校舎には誰もいない。 そういえばこの長い廊下にはアトリエがあったな。 僕は建築学生だった。 アトリエは設計課題に取り組む際に、模型などの作業を行える場所だった。 大学3年生。 基礎科目を終え、設計課題に取り組むことになった。 今までと違い自分の思い通りの設計をしてよくなった。 半畳ほどの狭いスペースしか与えられなかったが、その場所に幼い頃から憧れた夢を馳せたものだ。 しかし、ここにも彼女はいない。 彼女の歌声は上から聞こえてくる。 僕は階段を駆け登る。 淡い光しか入らない、薄暗い階段室を上へ上へと登っていった。 この建物は戦後すぐに大学復興の意味を込めて、建てたものらしい。 当時としては日本で一番の高層建築だったという。 学徒動員など暗い歴史を背負いながらも、明日へと向かう日本の大成長を上から見守ってきたのだ。 古いコンクリート特有の、型枠でできた縦縞の美しさ、会談室に開けられているスリットから入ってくる淡い陽の光は、美しく荘厳なものだ。 歴史と共に歩んできた階段室に、僕の足跡がカツーン、カツーンと響く。 一つ一つ上っていく。 上っていくはずだった。 大学4年生の最後の卒業課題。 僕にとっての集大成だった。 全力で挑んだ。 連日アトリエに宿泊し、アトリエが開いていない土日は家で、名建築の図面集や写真集を漁った。 しかし、優秀作品として表彰されることもなく、100人の学生全員が提出した、ただの人作品でしかなかった。 ただ、諦めきれなかった。 僕は自分を信じ、大学院へと進んだ。 階段室のスリットからは光が差していたが、雨天では淡く、足元がギリギリ見えるほどの明るさだった。 しかし、登り続けるとついに真っ暗になった。 スリットのない最上階の階段室についた。 そこには大きな鉄の扉がある。 この奥から彼女の声が聞こえる。 修士課程の2年間でも特に僕は目立った評価を得ることはなく、成績も中程度。 修士課程を終え、近しい友達がみんな卒業していく中、僕は大学に残った。 外の世界に行くのが怖くなっていた。 世間に評価されるのが怖かった。 有象無象の社会の一員になるのが怖かった。 しかし、今思えばその選択も間違っていたかもしれない。 博士課程でも評価されることはなかった。 博士論文は真面目に取り組んだつもりだったが、三年で受理されることはなかった。 自分を信じ、学費を出し続けてくれた両親も 「お前はよく頑張った。」 と就職をすすめてくれた。 しかし、帰って後戻りができなくなった僕は大学に残って研究を続けた。 重い扉を開けると彼女が、屋上の縁に足をぶら下げて座っていた。 「こっちにおいで。」と言いながら僕に手招きをした。 僕は彼女の隣に座り、彼女の目線をたどった。 いつしか雨は止んでいた。 空には虹がかかっていた。 「私、あの虹を渡ってみたい。」 彼女はそう言う。 「少し距離が遠いね。虹の足元があんなところにある。」 「そんなことないよ。一緒に行けばすぐ着くよ。」 彼女は立ち上がり虹を指さす。 「行こ。」 彼女は僕に手を差し伸べる。 僕は彼女の手を取る。 そして、立ち上がり一歩前に出る・・・・・。 温かな光が、僕を包む。 高揚感と安心感が僕を包む。 「僕は頑張った。もう頑張ったよな。」 「そうだよ。君は頑張った。だからゆっくり寝よう。」 僕は頑張った。そうだ頑張った。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 春陽があたたかく包む、ある日の昼下がり。 新入生の女学生2人が中庭のベンチに腰掛けて昼食を食べている。 「教室棟、きれいになったよねー。オープンキャンパスできた時とは全然違―う。」 「ずっと全面改修工事やってたらしいよ。まー戦後すぐに建ったものだから結構古かったみたい。」 「へーそうなんだー。さすが建築学科だね!よく知ってるー。」 「そんなことないよ。建ったばかりの頃は日本一の建物だったらしい。  歴史に残る建物だよねー。いつか私もああ言うの残してみたいな。」 「ふーかっこいいー。じゃあ有名になったら私の家も建ててよ!もちろん友達料金で(笑)」 朗らかな2人の笑い声が、中庭に響き渡るーーー。
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