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営業課長に言われて窓際で振り返ったその人を、晟一は良く知っていた。いや、良くは知らなかったけれど……とても好きだった。
何で。晟一はどきどきする心臓を必死で宥めた。確かに……ここはこの人の会社の系列やけど。
「久しぶりですね、また会えて嬉しいです」
石野宏一新部長は晟一に向き直り、大きな手を軽やかに動かして、話す。晟一は動揺のあまり、彼の耳は聴こえているのに、ご無沙汰していますと手話で返事してしまう。
「大阪に戻るかどうかを迷っていたのですが、新入社員の名簿に貴方の名前を見つけたので、受けることにしました」
晟一の顔が熱くなった。石野は昔と変わらない柔らかな笑みを浮かべつつ、昔と違って雄弁に語る。
「あの頃は少し頼りない男の子だったのに、立派になりましたね」
晟一は周りの目が無ければ泣いてしまいそうだった。そして、あの時どうしても伝えられなかったことを、思いきって手で語った。
「電車で話せるようになって嬉しかったです、もっと貴方に話して貰いたくて、手話を学びました」
石野はふわりと笑った。眼鏡の奥の目が優しい。その時晟一はようやく悟った。1日たった15分のこの人との交流が、その後の自分の歩く道を決めてしまったということを。そして……もしかするとこれからも。
静かな部屋の中で、晟一は大好きだった人との再会の喜びを噛みしめていた。それは、7年前の初夏に胸に落ち、静かにゆっくり育ってきた特別な種が咲かせた、小さいが美しい花だった。
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