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育った場所で、過去と。
僕が生まれた場所は石川県だが、幼い頃に父親の転勤の関係で福井に引っ越してからはずっと、いまも変わらず福井県金曽市にある大木橋町という人口が三万人にも満たない海沿いの田舎町に住んでいる。特にこれといったその町らしさを表す特別なものは何もない……、というかすくなくとも僕は何も知らない。でもよくよく考えてみれば地名を聞いただけで、その町のイメージがぱっと浮かぶような特別な、その土地らしさを持っている田舎町のほうがすくないような気はする。
そしていま、僕の目の前に広がるのは三十年前の、懐かしい光景だ。
駅を降りると僕は、自宅から徒歩五分くらいのところにある小学校の近くにいた。電車を降りると、まず駅のホームに出るものだ、とばかり思っていた僕は、その時点ですでに過去にいる実感を覚えていて、疑う気持ちは完全に晴れていた。すくなくとも僕が本来あるべきではない場所に来ていることだけは間違いない、と。
十年ひと昔、という言葉があるけれど、その言い方を借りるなら、もうみっつくらい昔の世界を僕は見ているわけだ。ずっとこの町に住んでいて、離れて住む人間よりは景色の移り変わりに気付きにくくなっている自覚はあるが、とはいえそれでも三十年前といまが驚くほど変わってしまったことくらいは分かる……と思っていたのだが、それでも急に三十年前の変化を目にすると、記憶の中にあった景色との間にだいぶ隔たりがあったのだ、と知る。
小学校の頃に、学校までの通学路の途中にあったスーパーマーケットはいまでは取り壊されてしまって、社宅のアパートみたいな建物ができているし、前にあったスーパーよりも三倍近い面積のスーパーがここからすこし離れた場所に代わりにできている。そのスーパーは、この十年後くらいに建てられたので、いまはまだ田んぼのままだった。よく利用していた微妙な品揃えの書籍と文具を取り扱っていた書店は、この数年後に潰れてコンビニに変わり、そのコンビニは、二、三回別の企業のコンビニへと変わりつつも生き延びていたが、つい去年のはじめ頃に、一番長く経営していたそのコンビニも潰れてしまって、いまは更地になっていた。
僕が最初に目指したのは、自分の住む家だった。
とはいえ、別に家族に会いたい、とそんな気持ちが起きたわけではなかった。もう死んでしまった祖父母もこの頃なら生きているので、話したい気持ちがなかった、と言えば嘘になるが、実際に会ったとしても相手は困惑するだけだろう。だから家へと向かう道すがら、どうするか、とても悩んでいた。会っていまの状況を伝えるか、それとも、とそんな風に。
だけどそんな心配はただの杞憂に終わってしまった。
ぼんやりと周りに気を取られながら、歩いていたせいかもしれない。向こうから歩いてくるひとに気付かず、僕はひととぶつかりそうになって慌てて避けた時に走って来る車にぶつかってしまったのだ……いや厳密に言えばぶつかったはずなのに、ぶつかっていなかったのだ。撥ねられたと思った身体は車と接触しても、何ひとつ動くことなく、切り傷ひとつ僕の身体にできなかった。
僕は試しに通行人の体に触れてみようと、適当なひとを選んで服を触ってみると、僕の手はそのひとの服からすり抜けてしまい、確信した。
僕は透明人間のような状態になっていて、この世界にいる何者とも関わることができない、と。
『行けますよ。ただ……』
とあの電車の中で出会った老人が言葉を濁した理由は、これだったのかもしれない。
つまり仮に僕が未来を変えたいと願っても、変えることはできないのだ。それが仕方のない話だとは分かっていても、僕はもう一度、光の死に耐えられるだろうか、という不安はある。ただそれをいまうだうだ考えていても、何もはじまらないのも事実だ。
自宅に着くと、父が昔乗っていたシルバーのワゴン車がある。
そうかきょうは休日か……土日のどちらかだろう。駅を降りる時、過去のどの日になるか考えていた。中学三年生の頃、僕が思い出せる限り特別な日は、ふたつあった。両方ともに、空野光が関わっているけれど、想い出の色合いはまったく違っている。
曜日で、そのどちらかは分かった。
ちょっと若かりし日の家族の顔を見たくもなったけれど、まだ時間はあるだろう。
先に僕は、いまは中学校にいて、特別な一日に強い不安と緊張を抱いているだろう少年時代の僕へ会いに行くことにした。
中学校は、ここから歩いて二十分くらいだ。
僕がまた歩きはじめた時、自転車に乗って祖父が家へと戻ってくる。もうすでにかなりの高齢だが、身体は筋肉質で、この二年後に死ぬなんて思えないほど、元気な姿をしている。気付けば呼び掛けていた。無意識だ。でも僕の届かない声に反応してくれることはなかった。
昔、僕は祖父が怖かった。短気でギャンブル好き、とあまり良いイメージもなかった。だから当時は話したい、なんて思うことは一度もなかったのだけど、でもいまはすこしでも構わないから話してみたい。そんな気持ちになっていた。
でも、それはできないのだ。
僕は、この世界にいてはいけない未来からの透明人間なのだから。
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