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静かな図書室で、ノルウェイの森と。
一言で表すならば、空野光は僕にとって真っ暗な世界に射したわずかな光だった。
もちろんそんな言葉は自分には似合わないので、当時もいまも口にすることはないけれど、そのくらい大きな存在だったのは間違いない。
初めて会った時から、光に特別な印象を持っていたか、というとそんなことはない。初対面の印象だけならば、光よりも、彼女と仲の良かった村瀬のほうが記憶に残っている。正直に言ってしまえば、僕は光とどこで出会って、最初に何を話したのかまったく覚えていない。よく話すようになったのは、クラスが同じになった中学三年生からだ。ただそれ以前、一年生の頃もクラスは同じだったので、すこしは話していると思うのだけれど、残念ながら、その時期の彼女との記憶は抜け落ちてしまって、思い出せそうもない。
だから記憶の中にある、光との最初の会話は、
『久し振り』
という記憶の一番はじめに持ってくるにはあまりにも、らしくない、ものだった。
僕は、光と違う小学校に通っていたので、中学校に入るまでは彼女の存在さえ知らなかった。村瀬と光は同じ小学校で、しかもふたりは幼馴染だというのも聞いたことがあって、光と会話をするようになるまでは、学校で人気者の村瀬と仲の良い女子生徒、というイメージが強かった。彼女が聞いたら、何それ、と冷たく怒るだろうか、やっぱり、と笑って親友の人気者ぶりに誇らしげになるだろうか。
そのイメージが大きく変わったきっかけは鮮明に覚えている。
僕たちの通っていた中学校に備え付けられた図書室はちいさく地味なものだった。そんな図書室に久し振りに入って、経年劣化した紙が寄せ集まった時の独特で、だけど落ち着くにおいとともにそこにいる光を見つけたのだ。司書の先生も席を外していて、その日、室内は僕と光だけの状態になった。ふいに目が合って、良かったら、どうぞ、と光が自分の席の隣を勧めてくれたのだ。彼女にとっては何気ない、これと言って深い意味もない行動だったのかもしれないけれど、僕は恥ずかしくて、その隣の席よりもうひとつ隣の席に座ったのを覚えている。
『田中くん、どうしたの?』
『どうしたの、って何が?』
『いや、だって図書室なんて、普段来ないじゃない』
『たまに、来るけど』
『嘘。だって私、いつも図書室に来てるけど、田中くん初めて見るよ』
とっさについた嘘はすぐに見抜かれて、なんと答えるか迷ってしまった。二年生の終わり頃に所属していた陸上部を辞めてしまって、授業が終わってからの時間を持て余すようになり、興味本位で図書室に入った、というのが本当の理由なのだが、そういう年頃だったのか元々の性格だったのか、あるいはその両方なのかは自分自身でも分からないのだが、真実を告げるのが恥ずかしくて仕方なかったのだ。
『まぁ、いいじゃんか、そんなこと。空野は、いつも図書室にいるんだ』
『多分、うちの学年で一番利用してるのは、私だと思うけど……。神崎先生にも、前に冗談で、お前が図書室に来なかったら、この図書室は存在意義をなくしてカビが生える、って言われたくらいだから』
神崎先生は図書室の司書をしている先生で、この日を境に図書室に入り浸るようになるまで、僕との間に関わりはほとんどなかった。それまでなんとなく真面目で優しいけれど、地味で目立たない先生、という印象を持っていたので、そんな冗談を言うんだ、と意外に思った覚えがある。ただ冗談めかしてはいるけれど、その図書室が不人気で、ほとんどの生徒から利用されていなかったのは事実だ。他の学校がどうかなんて僕は体験していないから知らないけれど、すくなくとも僕の通っていた中学校に関して言えば、図書室は陰気で寂れた、多くの生徒の興味を惹かない場所で、だからこそ僕は人間関係に一喜一憂することなく過ごせるかな、と図書室を選んだのだ。
そこで、まさかクラスメートとふたりっきりになるとも思っていなかった。
意外と言えば、神崎先生の冗談だけでなく、空野光というクラスメートがそこにいるのも意外だった。彼女が、本が好きなんて知らなかったからだ。でも、よくよく考えれば、意外に思うことこそが失礼な話で、僕は彼女がどんなものに興味を惹かれるのか、趣味は何なのか、というような彼女の個人的な情報をそれまで何も知らなかったのだから。小説が好きだろうが、スポーツが好きだろうが、バラエティ番組を見るのが好きだろうが、きっと同じように驚いていただろう。
光が、その時に読んでいた本はいまでも覚えている。
『何、読んでいるの?』
と僕が聞くと、光が真っ赤な表紙の本を軽く振り、
『村上春樹』
と言った。
『誰?』
『すごく有名な作家さん』
僕がその時、村上春樹を知らなかったことは許して欲しい。僕は当時、作家をひとりも知らないほど、小説から離れたところにいる存在だったのだ。いや厳密に言えば、ひとりだけ知っている小説家はいたのだけれど、そのひとに関しては小説を通して認知したわけではないので、あまりにも事情が異なる。
『面白い?』
『まだ読みはじめたばかりだから、分からない。有名って言ったけど、実は私も初めて読むの。村上春樹。涼子ちゃんに、ノルウェイの森は読まないと絶対に駄目、って言われて。人生の半分損してるよ、なんて普段小説なんて読まないくせに偉そうなんだから』
涼子ちゃんは、村瀬のことだ。確かに村瀬が本を読んでいるところなんて、一度も見たことがない。だけどイメージというのは恐ろしいもので、知的な美人という印象のある村瀬が小説好きだったとしても、意外な感じがしない。……という言い方をすると、光が知的な美人ではない、と捉えられてしまいそうだが、そんなことは決してない。ただ村瀬のほうがよりそういうイメージが強かったのは客観的に見ても間違いない、と思う。
『僕でも読めるかな?』
いま思い返しても、馬鹿みたいな質問だったと思う。光は困ったような苦笑いを浮かべていた。
『そんなの、私は田中くんじゃないから分からないよ。実際に自分で読んで、判断してみてよ。もし良かったら、これ、今日借りていけば』
『えっ、いま、空野、読んでる途中でしょ?』
『私はまだ他にも読みたい小説があるし、田中くんが終わってからでいいよ。本の借り方、分かる?』
結局、この話がきっかけで読んだ『ノルウェイの森』が、僕にとって最初に読み通した児童向けではない小説で、図書室にあったそれは単行本の初版だった。一九九〇年は、まだ村上春樹のこの大ベストセラーは文庫化さえしていない時期だったのだ。
一応は最後まで読み通した。ただそれまで小説とはほとんど無縁に過ごしてきた僕の頭に物語の内容がそれなりにでも入ってきたか、というと、残念ながらそんなことはなかった。それでも僕に小説と関わるきっかけをくれた相手は光で、僕の人生に小説、というものが結び付くきっかけとなった本は『ノルウェイの森』だ。それだけは間違いない。
〈飛行機が完全にストップして、人々がシートベルトを外し、物入れの中からバッグやら上着やらをとりだし始めるまで、僕はずっとあの草原の中にいた。僕は草の匂いをかぎ、肌に風を感じ、鳥の声を聴いた。それは一九六九年の秋で、僕はもうすぐ二十歳になろうとしていた。〉
文庫になった後、僕自身も小説を書きはじめた頃にも、僕は『ノルウェイの森』を読み返しているので、この文章が単行本の時とまったく同じだったか、初版の単行本が手元になかったので、確認するすべさえもその時にはなかったのだが、作中にあったこんな表現がやけに印象に残っている。
でも僕が村上春樹の『ノルウェイの森』と出会った後、村上春樹の色々な作品を読み漁ったりしたわけではなく、恋愛小説の良い読者になったわけでもなかった。僕は光に『ノルウェイの森』を渡した後、
『なんか、ちょっとハードルが高くて……』
と伝えた覚えがある。
『じゃあ今の、田中くんには向いてなかった、ってことだよ。でも小説、って不思議で、その時にはあまりぴんと来なくても、別の時に読むと、すごく面白かったりするんだ』
『空野のお薦め、って何かあるの?』
『もちろんあるけど、田中くんが好きになるかどうかは保証しないよ』
その時にお薦めしてもらったのはミステリが多く、岡嶋二人や島田荘司、赤川次郎や東野圭吾の作品を教えてくれて、僕とミステリの波長は恋愛小説のそれよりも合ったのだろう、僕はミステリの世界にのめりこむようになった。光との間に共通の話題が欲しかった、という打算的な感情もなかった、とは言わないけれど、でも打算だけで興味は続かない。ミステリそのものに強い魅力を感じていた。
そうやって、これまで互いに相手のことをまったく知らなかった僕たちは親近感を覚えるように、いや厳密に言えば、彼女の本心までは分からないが、僕は親しみを覚えていたし、それが恋心になってからは恥ずかしさでいつも夜中に転げ回っていた。比喩ではなく、本当に自室の床をぐるぐる回っていたのだ。
そして、あれから三十年近い月日が経って、僕を過去へと誘ったあの不思議な電車が僕の過ごした一九九〇年の中で一番特別な日として選んだのは、僕が空野光に告白した日曜日だった。その日は、事前に予想していたふたつの日のうちの一日で、予想通りでもあり、だけどもうひとつのあの日ではないことを意外にも感じていた。
「好きです。付き合ってください」
夏休みが明けてすこし経ったくらいだ。休みの日、ひとりで勉強しようと思って、と図書室にいた彼女の隣に僕は座り、一冊の文庫本を読みながらも、その内容は頭にまったく入ってこなかった。僕はあの日、それどころではなかったのだ。その時、僕の手元にあった文庫本は東野圭吾の『卒業』だ。光から借りたもので、いまは返すべき人間を失って、僕の部屋に保管されている。光の両親にいつか返そうと思いつつ、結局、話したこともなかった光の両親に言い出すことができなかったのだ。もう本の背表紙は白く褪せて、紙は黄褐色に色を変えている。
彼女から借りたきっかけはただの偶然で作為めいたものはなかったけれど、いま思えば受験に卒業とそんな学校生活の終わりが心に萌して、そんなタイトルも焦る僕の背を押していたのかもしれない。
告白の言葉はひどくありふれたもので、でも凝った言い回しなんて僕には似合わない。
「うん。ありがとう。嬉しいけど、ちょっとだけ保留にさせて。……誤解が無いように言っておくけど、嫌いとかじゃないから。ただすこしだけ待って欲しい」
と学校帰り、近くの公園で告白した僕に、彼女はそう言った。
いま、三十年の時を経て、僕はそのふたりの姿を第三者として見ている。公園に向かった僕が見ているのは、ちょうどかつての僕が、光に告白しているシーンで、台詞もあの時と何も変わらない。
光が別れを告げて、ひとり取り残されたかつての僕の心のうちを、僕だけは知っている。あんな言い方されたら、誤解しないで、と言われても、振られた以外には考えられない。
すこしずつ暗く澱んでいく空の下を、かつての僕がとぼとぼと歩いていく。
「どうしたの?」
と、いきなり後ろから僕を呼び掛ける声が聞こえて、僕は驚きで思わず身体を震わせてしまった。だってこの世界の闖入者である僕の姿は、誰からも見られるはずがないものだ、と思っていたからだ。
振り返ると、そこに立っていたのはかつての僕と同じ中学校の制服を纏った少年だった。
「きみは?」
「あれ。兄貴、だよね?」
三十年近い時を経た僕を、僕だと迷いなく指摘した少年は、兄貴、と僕を呼んだが、僕たちに血の繋がりはない。彼を、僕は知っている。だけど彼の姿も僕の知っている時の彼ではなかった。
「もしかして、きみも電車に乗ったのか?」
「うん。……兄貴もあの電車のこと知ってるの? あぁそれは後で聞くことにして、とりあえず」
「とりあえず?」
「その、きみ、ってやめてくれない。見た目が変わっても兄貴は兄貴なんだから、昔の言い方で呼んでよ」
「分かったよ。ソウ」
ソウは僕より四つ年下の、近所に住んでいた幼馴染で、僕が高校生の時に中学生だった彼は突然姿を消し、行方不明となった彼が、見つかることはついになかった。
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