桜散る、季節は。

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 目の前を、薄桃色の花びらがひらひらと舞い落ちる。儚い花びらだ。もし触れてしまったなら消えてしまいそうなくらいに。幹にもたれかかったまま手を伸ばした。ひらいた手に、小さな花びらがひとつ、柔らかに落ちた。当たり前だけれど、触れても消えることはなかった。目を細めてそれを見つめる。風が吹いて、耳元で髪が揺れた。 「綺麗ですね、桜」  後ろから突然聞こえた声に、そして『サクラ』という言葉に、びくっと肩を竦ませる。声の主は――振り向かなくても分かる。もう、何年も聞き続けてきた声。男の人にしては高めの、けれど透明な澄んだ声。世界で一番、好きな声――。  ゆっくりと振り向いた。彼は少し離れたところに立っていた。 「昼食の用意がもうすぐ出来るそうです」  濃い色のスーツを着た彼は小さく微笑んだ。 「分かった。ありがとう」  スカートをはたいて立ち上がる。歩き出すのを彼はいつも待っていてくれる。自分のよりも小さい歩幅に、彼はいつも合わせてくれる。並んで歩きながら、頭一つ分近く高い位置にある彼の顔を横目でそっと窺った。綺麗に整えられた柔らかそうな細い髪が風に揺れた。 ――サクラ。  さっきの彼の声を思い出して、とくんと胸が鳴った。そんな自分を心の中で苦く笑う。  違うんだから。さっきのは『桜』。わたしじゃないんだから。  篠原(しのはら)(さくら)は地面にそっと目を落とした。そして、くちびるの端を少しだけ上げる。彼――吉野(よしの)祐貴(ひろたか)は桜を桜とは呼ばない。――それでも。  それでも桜は嬉しかった。あの声が、『サクラ』と言ってくれたことが。                *  白い石畳に沿うように、綺麗に手入れされたバラの花が咲き乱れる。庭の中央、透明な水が溢れだす噴水の縁には繊細な彫刻が施してある。ヨーロッパらしい雰囲気に整えられたこの庭に、けれど不釣り合いな桜の木が一本だけある。桜の父の祥一郎(しょういちろう)が植えたらしい。  祥一郎は社長だ。電子機器製造、医療機器メーカー、飲食店、宿泊業など、幅広く事業を展開している。それらはすべて中小企業に多い形態の特例有限会社なのだが、祥一郎の父の代から急速に事業が拡大し、今では大企業並みの規模と従業員数だ。だから桜は――、 「お嬢様」 「何?」  吉野に呼ばれて、桜は顔を上げた。吉野は続ける。 「旦那様は今日も遅くなるそうです。先程電話がございました」 「そうなの。大変ね、お父さんも」 「年度初めですからね。……どうぞ」  玄関に着くと、吉野が扉をあけてくれた。ありがとうとお礼を言って、桜は邸のなかに入る。吉野も続けて入って静かに扉を閉めた。食堂へと向かう。敷き詰められた柔らかな絨毯が二人の足音を吸収する。 「授業開始は再来週ですか?」  吉野が訊いた。桜は都内の私立大学に通っている。学部は経済学部だ。 「うん。月曜から。……あ、それでね、吉野」 「はい、何でしょう」 「信用創造の意味がちょっと分からなくて。後で教えてもらえない?」  経済学部を主席で卒業している吉野に頼めば、彼はすぐに頷いた。 「かしこまりました。……努力家ですね、お嬢様は」 「そんなこと言って、吉野も毎日勉強してたじゃない。吉野の方が努力家だよ。わたしはあんまり頭良くないから、ちゃんと勉強しないと分かんなくなっちゃうだけだもん」 「そんなことありませんよ。頑張っていらっしゃるじゃないですか、お嬢様は」  そんな話をしているうちに食堂に着いた。食堂の扉も吉野があけてくれた。
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