白菜の糠漬け

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 高台の住宅団地に住んでいるので、野菜は生協で頼んでいる。加温栽培のキュウリやナスが出る頃には、夏の間大活躍した糠床も、以前ならそろそろ店仕舞だ。何時の頃からか、白菜の出番になると、今度は白菜の糠漬けが始まる。  実は白菜は子供の頃からずっと塩漬けだった。結婚して長岡京市に住んでいた時、お向かいの野々村さんが、冬になると白菜の糠漬けを漬けていたのだ。家の前の道路は、どん突きが一段低い田んぼになっていて、車も入って来ないし風もよく通った。野々村さんはその道路の端に、四つ割りにした白菜を並べて干すのであった。何日か干して葉っぱが萎びてくると、木の樽に糠と塩で漬け込んで重石を載せていた。  おすそ分けに戴いた糠漬けは、糠の芳ばしさと酸味の中に白菜の甘みと瑞々しい歯応えも有って、箸が止まらなくなるほどだった。  野々村家は普段は野々村さん夫婦と、実母と実弟の四人暮らしだったが、週末ともなると、必ず娘夫婦と幼い男の子の孫がやって来て、大賑わいになった。夜遅くまで明かりの付いた家で楽しそうに笑いさざめく声を聴いて、羨ましくもあった。  そんなある時、奥さんが立ち話の途中で孫が難聴だったことが分かった話をした。 「京都にいい学校があるんやけど、京都市民やないと入られしまへんねん」  伝統ある京都市の聾学校に、何としても孫を入学させたい口ぶりだった。 野々村さんに抱っこされて、車のボンネットの上に干してある箱の中で寝ているうちの猫に、おかきやお菓子をやってくれる優しい子だった。猫の寝床をしまう時、箱の中に猫が食べないおかきがよく転がっていた。あの子が、耳が聞こえないとは、何と気の毒な。  当時私は駅前でテナントビルの二階を借りてビル診をやっていた。市内にはいくつもの大手電機メーカーの工場があり、隣の町には有名酒造メーカーのビール醸造所があった。  日頃の診療に疲れ切って、夜診が始まる前にビルの前の駅に通じる道路をぼんやりと眺めていると、電気メーカーの送迎バスが、ちょうど診療所に通じる階段の前に停まる。バスのドアが開くと駅に向かう人もいれば、そのまま階段をぞろぞろと上がって、診察を受けに来る人達も結構いるのだった。  カルテは診療机の左側に縦に並べられ、時間と共にカルテの列はどんどん長くなっていく。従業員も何人か雇っていたし、テナント料は駅の真ん前という事で結構高かったし、銀行からの事業用の借り入れもあったし、死に物狂いで働かざるを得なかった。  患者さんとろくに話もできないまま次々と薬を出していく。そうでもしなければとても三時間の診療時間内に見れる数ではないほど、患者さんがやって来た。いくら診ても診てもカルテの列が短くなるどころか、次々に受付の人がカルテを持って来て並べていく、そんな夢にうなされることも珍しくなかった。  あの頃が私の人生で一番たくさん仕事をした時代だった。年月が経ってそういう仕事のやり方にも区切りをつけようと、ビル診を辞めて転居することになった。次の年、野々村さんから年賀状が届き、世話を頼んで置いてきた猫の元気な様子を知らせてくれていた。ところがその年の暮れ、突然奥さんから喪中はがきが届いたのだった。  正月休みに野々村さんの家を訪ね、遺影にお線香をあげさせてもらった。 黒縁に囲まれた笑顔の野々村さんは、生前と変わらず大らかで穏やかだった。 私は、野々村さんが亡くなったということが、とても俄かには信じられなかった。  それから二、三年たって関西に行った折、懐かしくなって元住んでいた家を見に行った。向かいの野々村さんが住んでいた家は、転居して空き家になっていた。あの男の子は京都市の盲学校に入ったのだろうか。大おばあちゃんはどこか施設に入ったのだろうか。妻を交通事故で亡くし、自身は白血病を患っていた弟さんはどこへ行ったのだろう。  野々村さんの存命中は家族は辛うじて一つになっていた。あまつさえ、幸福な家庭に見えた。しかし、どんなに幸せそうに見える家庭でも、家族一人一人の運命が隠されていて、波乱の兆しが潜んでいないとは限らない。野々村さんは実母と実弟を一緒に住まわせ、奥さんにどれほど気を使っていたのだろう。その上、孫が難聴という事が分かって、もう長岡京市には住んでいられなくなったのだろう。そんな中で亡くなっていった時、野々村さんはどんなにか心残りであったろう。  あれから我々の身の上にも、おおよそ予想だにしなかったことが次々と降りかかってきた。今から思い出すと、むしろ辛い仕事に追われていた頃にも、一片の幸せがあったのかもしれない。  白菜を漬けながら、野々村さんが四つ割りにした白菜を家の前の袋小路で干していたあの日に、もう一度戻ってみたいと思う。                 完
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