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突然立ち上がったエンに、心の準備はしていたものの矢張り驚いてしまい、ランは少しだけ身を反らした。
長机の広い面に、エンと向かい合わせに座ったカスミと、幼馴染で従兄に当たるロンは、その剣幕にも動じていないが、エンの隣に座っていたジャックは、慌てて男を抑えようと手を伸ばす。
師匠に腕を攫まれても、今ではびくともしないエンは、立ったまま目の前に座る男を見下ろした。
「……随分永く、ここでお世話になっている筈ですが……これは、戯れが過ぎませんか?」
「永いと言っても、十年ほどだろう? いう程ではない」
真面目に返す男に、エンは久しぶりに、顔が取り繕えなくなっていた。
笑いが消えて引き攣るその顔を、ロンが人を食ったような笑顔で見ている。
「仕方があるまい。お前がどの位使えるようになるのか、拾った時には分からなかったからな。初めに宣言しておいて、後で使えないとなっては、片づけが面倒な事になるだろう?」
「初め? つまり、会った時から、分かっていたんですか。オレが……あなたの子供だと?」
長机を砕かんばかりの勢いで、拳を握り締めるエンに、カスミは真面目に頷いて続けた。
「というより、お前が売られたと聞いたから、あの商家を根絶やしにしたのだ」
相変わらず、人を怒らせることに関しては、天下一品だ。
中立の意味で、父親と腹違いの弟の間の、机の狭い面の席に座ったランは呆れながら、身を乗り出して父に掴みかかろうとする男を、抑えた。
「落ち着け。……親父も、怒らせる言い方は、するなよ」
「この程度で怒る方も、悪いだろう? こらえ性がない。まあ、その辺りはラン、お前が助けてやれ」
エンはカスミの実の子供という、衝撃な事実にだけ動揺しているが、事はそれだけではなかった。
カスミは、自分の後継者として、エンを持ち上げるつもりなのだ。
「……千歩譲って、あなたの子供と言うのは、受け止めるとしても……」
「十歩くらいで、譲って欲しいものだが」
絞り出す声に答える真面目な声は、完全に喧嘩を売っている。
それが分かっているエンは、自分を抑えながら必死に続けた。
「何故、ランではなく、オレがあなたの後を、継がないといけないんですか?」
「ランは、これでも女だぞ?」
「そうなんだよ。悪いな、エン。オレでは、男所帯をまとめ上げるのは、無理なんだ。ほら、力も弱いし」
久し振りに、殺意駄々洩れの目線が、ランを真っすぐ刺した。
「怖いなあ。そう言う目は、か弱い女には怖がられるぞ」
「……」
黙り込んだ男を見て、揶揄い過ぎたと我に返り、ランは腹違いの弟の顔を覗きこんだ。
「まあオレは、か弱くないけどさ、この大所帯をまとめるには、力が足りないんだよ。勿論お前ひとりでは大変だと思うから、ちゃんと手伝うから……」
「ランちゃんは、力でまとめることは出来ないけど、エンちゃんにはない人徳は持っている。だから、二人で力合わせて、この大所帯をまとめて欲しいのよ」
ロンが、笑顔でランに続ける。
ジャックに次ぐ大きさの男は、色白の西洋の老人と違い、色黒の東洋の男だ。
野性味のある美男子なのに、どこかの貴族の出なのかと思わせる、やんわりとした口調が定着している。
昔は不自然極まりなかったのだが、年月を重ねると周囲も本人も慣れてしまうものらしい。
言う事は全て言ったと、三人が黙り込んだ。
本人の意思は、一応聞く。
だが、今は色よい返事がなくても、徐々に仕事を回して、最終的には押し付ける算段だった。
エンは、黙り込んだまま顔を伏せ、力なく椅子に腰かけた。
心配そうに顔を覗きこむジャックを一瞥して、静かに顔を上げた男は、きっぱりとした返事を口にした。
「お断りします」
そうかと、予想通りの返事に頷くカスミに、エンは穏やかな笑顔を向けた。
そして、予想外の事を口にしたのだった。
「近い内に、この稼業から足を洗う心算でしたが、こういう仔細では、ここに止まるわけにはいかないですね。すぐに、ここから立ち退きます」
今度は、カスミが立ち上がった。
ランも驚いたが、その驚きよりも父が動揺した事の方に驚き、体を反らすことも出来ずに唖然としてしまったのだった。
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