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一段飛ばしで階段をのぼり、おれは教室に向かった。ドアを開ける前にふと教室の中を見ると、そこには千紘の姿があった。
夕日の差し込む教室で、なにをするでもなく、千紘は自分の席に座っている。窓越しに夕焼け空を眺めているのか、紅い日を受け止めた頬は、ほんのりと光っていた。
千紘の頬をなぞるように伝っていく涙の筋が、あまりにも美しくて、おれは立ち尽くしてしまった。
無彩色の千紘に、感情の色が差し込んでいる。
悲しみと喪失感をたたえた表情を、オレンジ色の夕日が包み込んでいた。
おれはゆっくりとドアに手をかける。
千紘にずっと伝えたかったことが、今なら言える気がした。
おれがドアを開けたのと同時に、千紘は涙を拭った。自分の気持ちに区切りをつけるように、袖口で顔を拭った。
「伊織、遅かったね。相良先生と話してたの?」
「授業でわかんないとこ、相良先生に聞いてきただけ」
おれ、美術の成績悪いし、適当な言い訳をしながら、千紘に鞄を渡した。ずっしりとした鞄を両手で受け取った千紘は、静かにおれを見つめている。グランドから溢れる声が、二人の沈黙をかき消すと、やっとおれは千紘の前に座ることができた。
「千紘の好きなベルナール・ビュフェ、一緒に見にいこう」
千紘の驚いたように開いた瞳を前にすると、体じゅうの熱が顔に集まって、倒れてしまいそうだった。千紘はおれから視線を逸らして、もう一度夕焼け空を見る。
「ほんとにぼくでいいの?」
なんだかこの教室だけ、世界から切り離されたように感じた。千紘とおれだけの空間。いままでずっと言えなかったようなことも、今は簡単に言える気がする。
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