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あの時の敵対心は、美術室でのやり取りを聞いて確かなものになった。
僕は君を愛していたけど、遺伝子を残すために人間の摂理に従った。勝手に声が蘇る。淡々とした相良識の口調を思い出した時、握った手のひらに力が入った。
「遺伝子をどうこういうやつが愛を語るなよ‥‥」
俯いたままつぶやくと、伸びた爪が手のひらの柔らかいところに刺さる。
相良識には言いたいことが山ほどあった。でも一番許せないのは、千紘の思いを否定したことだ。
たとえ、男同士の婚姻が世間に認められないとしても、恋をするのは自由だ。同性を好きになって、なにが悪いっていうんだ。明るい未来が訪れなかったとしても、誰かに居場所を見出だしたっていいじゃないか。
静かな美術室の前で、もう一度手のひらを握る。爪の食い込む痛みがきっかけとなって、おれは美術室の戸に手を掛けることができた。
「失礼します」
がらがらと居心地の悪い音をさせて戸を引き、おれは千紘と自分の鞄が引っかからないようにして、教室に入る。
「千紘くんならもう帰ったよ」
と、室内から低い声がした。
顔を上げると、相良識はおれに気づいているはずなのに、こちらに背を向けたまま、角椅子に座ってキャンバスを眺め続けている。
相良識の作品だろうか。白いキャンバスには、群青色の花瓶と、たっぷりと盛られた花が見える。しかし、鉛筆で描き込まれた花には色がなく、群青色の花瓶だけがやけに目立っていた。
まるで、花に色を塗るのを躊躇っているようなキャンバスを前に、相良識は振り返ろうともせず、未完成の絵に見入っていた。
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