101人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
ぼくも、相良先生のように遺伝子に従順だったら、苦しい思いをしないで済んだのかもしれない。ぼくが女の子だったら、相良先生と手を繋いで海岸線を歩けたかもしれない。美術館だって、紅葉狩りだって行けたかもしれない。
「相良先生」
ぼくは出来るだけ口角をあげて名前を呼ぶ。
今日も相良先生の肩は、ぼくの好きな形に尖っている。
「ご結婚、おめでとうございます」
心を込めて言ったはずなのに、声が床に落ちていく。上手く笑顔が作れない。
「ありがとう、千紘くん」
ぼくの中にある思いは、もう伝えられない。
相良先生はぼくとの間に、教師と生徒という壁を作ったように感じた。
眼鏡を外した瞳にぼくを映し続ける相良先生にそっと背を向けて美術室のドアを開ける。好きでした、と呟いた瞬間、視界がボヤけた。
震える手でドアを閉めると、今度は大粒の涙がこぼれ落ちる。冷たい廊下に自分の声が染み込んでいく。
「千紘?」
美術室から少し離れた場所に、伊織が立っていた。ぼくが教室に置いてきた鞄を大事そうに抱えている。
「大丈夫? じゃないか‥‥」
ゆっくりこちらへ歩いてくる伊織の顔は、涙の膜が張っているせいでよく見えない。いつからここにいたんだろう。ぼくを心配して迎えに来てくれたのだろうか。でも、なにを話せばいいかわからない。泣き顔も見られたくない。
「ごめん伊織」
鞄を差し出そうと伸ばされた腕を振り払い、ぼくは一目散に駆け出した。「千紘!」伊織の声がしたけれど、涙の冷たさに気が奪われる。廊下を蹴る上履きが、キュッ、キュッと音を鳴らす。そのまま階段をのぼると、教室にたどり着く。夕暮れに染まる教室は、いつもよりずっと寂しく見えた。
最初のコメントを投稿しよう!