プロローグは鮮やかに

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「いいえ、おれは相良先生に用があるんです」  花瓶の色に近い、濃紺のシャツを着た背中に声を掛ける。それでも相良識は振り返らない。 「美術の成績が悪いが、僕になんの用かな?」  平坦で抑揚のない声を聞いた瞬間、千紘のことは下の名前にまで付けて呼ぶのに、おれは呼び捨てかよ、と苦笑いした。目の前の相良識は、まるでおれに興味がないとでも言いたげに、膝に頬杖をついて、相変わらずキャンバスを見つめている。  ここで怯んでしまうと、相良識の色に飲み込まれてしまう気がして、おれはポケットに入れたスマホを指先でなぞった。 「どうしてもこれだけは言っておきたくて」  目を背け続ける相良識に、真剣な声が届くように、湿気た床に落ちてしまわないように、おれは美術室の空気をたくさん吸い込んで、千紘の代わりに胸を張った。 「相良先生、人は脳と心で誰かを好きになるんです。身体だけで相手を選んだりしないんですよ。先生はさっき、明るい未来の為に結婚するって言ってましたよね? それ聞いた時、先生って染色体に振り回されてて、見えもしないもんに縛られてんだなって思いました‥‥だから、千紘の代わりに言わせてください」  ポケットの中でスマホを握った瞬間、キャンバスの中の群青が目に留まる。来るものを飲み込む深海のような青。でも、千紘がおれを「空みたい」と表現してくれたから、絶対に染まらない。相良識を否定して、一緒にベルナール・ビュフェを見に行くんだ。 「あなたは、どこまでもかわいそうな人ですね」  キャンバスと見つめ合う背中に、しっかり打ち込むように言うと、相良識は頬杖を解いて振り返る。眼鏡の奥から覗く瞳は、酷く冷めていて、人を引き込むような力を秘めていた。
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