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張り詰めた美術室の空気に、思わず息を呑むと、相良識は微かに眉をひそめた。
「僕は、深瀬の澄んだ目が嫌いだよ」
この時、目の前の相良識は教師じゃなく男の顔をしていたと思う。ひどく冷たい目と、わずかに上がった口角。挑戦とも取れる態度を前にして、何か言い返さなくてはと焦った。
しかし、必死に言葉を探しても思いつかない。二人の間に沈黙が流れると、相良識が困ったように微笑んだ。一瞬、見間違いかと思ったが、おもむろに眼鏡を外した瞳は、今まで見たことがないくらい優しい色をしている。
「話が済んだなら、もう帰れば?」
相良識は聞き馴染みのある柔らかい声で言うと、キャンバスに視線を戻した。少しだけ丸まった背中を見ながら、相変わらず掴めない男だな、と思う。どうしておれの目が嫌いなのか、なんで微笑みかけたのか。すべてを曖昧にしたまま、愛情とも反撥とも取れる言葉を残して、相良識はキャンバスを見つめ続けている。夕日に照らされる姿はまるで、来るはずの無い誰かを待っているように見えた。
静かな校舎に、自分の息遣いと足音が響いている。硬い廊下を蹴るたびに、故障した膝が痛むけど、誰よりも早く在ろうとした運動部時代より、今の方がずっと速く走りたかった。
一秒でも早く千紘に会いたかった。
だから、膝が痛くても二人分の鞄が重くても、両足を一生懸命に動かし続ける。相良識を否定したことで、やっと千紘を追い掛ける権利をもらったような気がしたからだ。
千紘と会ったら真っ先に美術館へ誘おう。
でも、おれみたいな脳筋と行ったってつまんないよって、笑うかな。それとも、喜んでくれるかな。
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